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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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芝居の首

南越谷駅前には阿波踊りの像。
毎年八月の催しは30年を越したという。三大〇○というのは、大抵異説があるものだが、
関東三大阿波踊りにも、日本三大阿波踊りにもカウントされているのだという。


駅からバスで15分ほどの藤浪小道具さんが今日の目的地。
『東海道四谷怪談』で使う切首の型取りである。

鎌倉権五郎や芋洗弁慶に十把一絡げで着られる“駄首”は別として、
役物の首も必ずしも似せた首を造る訳ではない。
『寺子屋』の小太郎、『仮名手本―』の師直等などは重要な首であっても、
似せては造らない伝統になっている。


役者に似せて首を造るようになったのは、南北さんの修行時代。
南北さんとも縁の深い初代松助丈が嚆矢だという。
してみると、南北さんがお好きな本首(役者が切り穴から首を出して切首の役をする)の演出は、
この似せ首(偽首でない)の流行に乗って発想された目新しいものだったろう。
『四谷怪談』の台本には、伊藤喜兵衛・お梅の死も本首演出として記されているから、
似せ首組に入れられたもののようだ。

生人形師・安本亀八の手になる九代目の切首を観たのは、
もう十年も前。巡演先の熊本市現代美術館に鎮座した首は、
今にも動き出しそうだった。

切首を使用する前の公演中毎日20分ずつ楽屋に通って
少しずつ彫り上げたという職人の経験談も伝わっている。
ライフマスクをとるようになったのは何時頃のことか。
所謂デスマスクが作られ始めるのは17世紀とのことで、
クロムウェルのものが残って居る。
日本では有名な漱石のデスマスクが走りなのだろうか。
信憑性は兎も角、伝・信長デスマスクというのがあるらしい。

特殊メイクの技術も進んだ昨今だから、型を取る素材も多種多様の様だが、
今回は敢てクラシックに石膏の型取り。
生仮面ライフマスク

但し今回は枠の土台の素材を替えてみるとのことで私がその実験第一号。
チューブで気道を確保して額の方から石膏に埋もれていく。
ずっとお弟子さんの手を握っていた大御所もいらっしゃったというが、
外界と繋がっているのは耳だけ。死んで魂が残るものならこんな状態だろうか。

石膏が熱くなって来たら固まり出した印。
顔の下半分から固まった石膏が剥がれ始めて少し軽くなる。
すっかり固まった処で、半身を起し少し下を向くと、
顔のネガが両手の上にゆっくりと顔落ちて一丁上がり。
一人前三〇分ほどの工程である。


小道具さんの作業場は専門に分かれて、
此方に『毛谷村』の臼があるかと思えば、
向うには『鳴神』で投飛ばされる所化人形。
前進座『龍の子太郎』の小道具が奇しくも手直し作業中だった。
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江上の破屋

“江上の破屋に蜘蛛の古巣を払いて”とは、芭蕉翁の『奥の細道』。
二年もほったらかしたブログに戻って来て、そんなフレーズが不図口をつく。
『お染の七役』の番頭善六に手いっぱいだったり、劇団のブログを担当したりで
手につかぬ儘に時が経ってしまった。

翁の如く“春立てる霞の空に”また破屋を離れることになるやは
不詳乍ら、取敢えずは日々のよしなしごとを綴ることにしたい。


深川芭蕉庵

“せーの”と云う掛け声を聞くとドキリとする。
が、それがこの頃少なくも日に二度や三度はTVから聞こえてくる。
人と合わせる必要のない処でも“せーの”と云わないと動けない人種が増えているようだ。
言葉は変化するのでそれは一向構わないのだが、時代劇や下手をすると歌舞伎の捨て台詞に出て来かねない昨今の“せーの”一辺倒状態である。同じく一世を風靡していても“最初はグー”のように起源がはっきりしているものは始末が良いのだが、“せーの”については壽岳章子女の考察があるものの、定説に至っていない。西濃運輸起源説はどうやら眉唾らしく、“いっせえのせ”から来たというのが有力である。

歌舞伎や戦前の時代劇映画には出てこない、これが捨て台詞でその言葉を使うかどうかのささやかな拠り処になる。が、江戸の話ではない新作歌舞伎なら、“せーの”と云っても何ら可笑しくはないわけで、その辺りから古典の捨て台詞に“せーの”が流入してくるのはもう指呼の間と危ぶまれる。
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将軍の墓

源氏山から北鎌倉へ…
何処かで聞いたフレーズの様な経路を歩いてみたのは三年前だったか。
化粧坂の切通しなどを通って、こんな険しいところに幕府を置いたのかと
不明ながら初めて知った。


歌舞伎では江戸の街に擬えられる鎌倉だが、
商業性を重視する秀吉以降の都市とは違って、防備第一の軍都である。
久し振りの神奈川の演劇鑑賞会さんのコース、午後からの公演なので、
こんな機会でもないと足を運ばない鎌倉に始発で出て来た。

頼朝の墓と段葛を見るのが目的だったが、
段葛は周囲を覆って三月末まで保全工事の最中。
桜の季節には間に合わせようという腹らしい。


 小中学生の一団と前後して、若宮大路を鶴岡八幡宮へ。
小学生は大路の右を中学生は大路の左をと綺麗に分かれて行く。
修学旅行の季節でもあるまいと思ったら八幡宮境内を抜けて右手の
中高への通学路になっていたのだった。歌舞伎狂言でもお馴染みの
“雪の下”という洒落た地名に建つ小中学校の先を北東に行くと法華堂跡。
三浦一族が大挙して割腹、滅亡した地である。
此処に残る頼朝の墓は、頼朝の子孫を名乗る
薩摩の島津氏が江戸中期に改修したもの。

 頼朝の子孫かどうかは兎も角、
島津も毛利も鎌倉をルーツに御家人として西国に広がった氏族であることは、
司馬遼太郎氏が『街道をゆく』に記している。


 頼朝墓のすぐ右手に大江氏、島津氏、北条氏の墓があるが、
此方の方が石段も長く風趣に充ちている。
改修した島津氏の趣味か、当人の人となりなのか、
頼朝さんの墓はどうも素っ気ない。
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吉良邸跡

江東での公演を終えて、両国まで歩いてみた。
吉良邸跡は随分以前にも行った気もするが、終えたばかりの『薄桜記』の締め括り。

 吉良上野介は所領・吉良吉田では
赤い駄馬に乗った親しみやすい名君。治水の為、黄金堤を普請した治績もある。
愛知県の教育委員会が出していた小学生用副読本
『郷土に輝く人々』の第二巻が『赤い馬』で、吉良公が取り上げられている。

 吉良方の立場からの小説も近年は目にするが、映像では矢張り敵役の吉良が圧倒的。
半世紀前に『薄桜記』を書いた五味康祐は大したものだと思う。
が、完結と前後して映画化された同名作品は、換骨奪胎、
吉良方の用心棒を悪る役に仕立てて、彼らと典膳・安兵衛が闘う筋になっている。
赤穂浪士が主人公と対立位置に立つストーリーは早すぎたのだろうか。

 本所は吉良方の本拠、と言いたいところだが
事件後に屋敷替えをして俄に移って来た土地。決して吉良びいきというのではない。

僅かに残された吉良邸跡の前には赤穂浪士側からの碑が建つ。
それでも敷地内には、吉良家犠牲者を遠慮がちに記しただけの碑や
流血の跡を清めるために勧請された稲荷社の他に、
吉良公座像が数年前に加わって聊か面目を保っている。
隣の和菓子店は“吉良饅頭”を商う。

 “赤穂義士”の話が忘れられていくのは時代にとって健全なこととも思える。
が、数々のスピン・オフストーリーが消えて行くのは聊かもったいない。
正義と悪の対決でない赤穂事件物は
まだまだ生まれて来る豊かな土壌が此処にはありそうである。
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近大卒

 日比谷で用を済ませて文学座のアトリエに回るつもりだったが、
開演3時間前から4枚だけ出るという当日券は競争率が高く
30分ダイアルし続けて、手に入らないことが漸くわかった。

 “近畿大学水産研究所”夜の開店直後に行き罹ったらが
此方は席があったので、初めて入ってみる。
 近大で養殖された魚などを食べさせる店。


テーブルにはアエラの近大特集号も置かれて大学のPRにも効果絶大。
前理事長にはあまり好感度を感じないが、文楽大夫、スポーツ選手など多方面に人材を輩出している。

 近大が養殖に手を染めたのは1954年というから、
第五福竜丸事件や警察予備隊の創設があり『ゴジラ』『七人の侍』が封切られた年。
クロマグロの養殖に取り掛かってから人工ふ化に成功するまでは9年だが、
完全養殖に漕ぎ着けるまでには更に23年の歳月が掛かっている。

 近大卒の魚たちの刺身盛には卒業証書が添付されている。
水産資源の先行きに明るい話の少ない昨今、
誠に頼もしい卒業生たちではある。
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