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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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死んでもブレストを

 江東区で朗読劇『死んでもブレストを』。
東京大空襲を描く早乙女勝元先生の作品は、小学生の頃にも課題図書になって居たものだが、これは墨田の電話交換手たちが迎えた三月十日の物語。28名が犠牲となり、非番を含めて4名が生き残った。
墨田交換手慰霊の碑

 公演の朝、錦糸町で降りて雨上がりの道をNTT石原ビルに回る。ここにあったのが舞台となった墨田電話局。
道に面した角地に慰霊碑がある。13年後、ビルが新築された際であろうか、三月十日に除幕されている。
慰霊と記した碑の向かって左前にあるのが作家・吉川英治氏による文章。別れた妻と暮らしていた吉川氏の養女も空襲で消息を絶っている。後妻と共に焼跡を捜しまわったという作家は、慰霊碑の除幕式にも参加、数日後に新たな碑文の依頼を受けたという。向かって右前には生き残った交換手が90を迎えての文章が刻まれる。
 以上は、ビルの角地の植え込みに囲まれてひっそりとたたずんでいる。
NTT石田ビル角

四つ目通りに出て、小名木川や横十間川を越して江東の公演会場に。この辺りもみな焼け野原だった筈。当時の地図をよく見ておけばよかったと後悔。
錦糸公園という大きな公園があるが、帰ってから調べたら大空襲の犠牲者一万人が当時仮埋葬された場所だったという。

 今回図書館で『電話交換手たちの太平洋戦争』という書を見つけた。
生存者の証言と記録をもとに、想像の翼も広げた小説であるが、8月14日に名古屋では全て自動交換方式になった、など興味深い当時の状況が記される。
屋上から放水して延焼を防ぐ装置が、墨田の話にも出て来るが、このドレンチャー装置が交換手たちの命を護った例、「鎧戸さえあればもっと持ち堪えられた」と主任が嘆く“鎧戸”が交換手の非難を阻んだ実例も記録されている。主任の言葉は交換手を思いやることより、あの段になっても戦争の生命線である通信死守を意味したものであったこと、事実、敵機情報、各種警報、応戦命令といった機能が全て交換手たちが守る電話回線に依っていたことを改めて認識する。三年ほど前になろうか、『法然と親鸞』の稚内巡演で会館の裏手の丘の上にその記念碑があり、玉音放送後に起こった悲劇を初めて知った。樺太・真岡町の交換手たちの話もこの本には記されていた。
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