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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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松の廊下

 松の廊下跡を見に行った。
開園時間の制限はあるが、無料で入れる東御苑の中に 
千代田城の遺構はある。

 一ツ橋に近い平川門を這入って 窓口?で入園票を貰うと緩い上りの道に導かれる。
道の両脇には櫓跡であろう幾つもの石垣に紅葉が映える。
公園として整備されているが、城跡であり、向いの国立劇場で上演している『薄桜記』の中で頻りに出て来る権力の権化“ご公儀”とは此処の事である。
 
登り切って急に開けた視界には天守台。徳川初期に焼失した江戸城天守閣は
以降再建されなかったとは有名な話だが、その石垣が今も残って居るとは不明にしてこの時初めて知った。
 焼失後200年続く徳川時代、何を想って天守閣不在の土台を見上げたのだろう。財政等諸事情が再建を許さないことを残念に思ったのか、最早無用の物と感じていたのか。日本人の好きな中空構造は此処にも顔を出しているのかと取り留めない考えが去来する。

天守台に続く広い芝生は、江戸城諸施設の跡。遥か向こうに“松の大廊下跡”がある。と言っても、小さな碑石がー廊下の名前に因んでかー松の根方に建っているばかりである。
 工事中の大手門から出て濠の外周を廻って国立劇場の楽屋入り。
楽屋入り前の周辺散策は五月公演からの習慣乍ら、東御苑は初めて。30分の駆け足ではもったいない。一度ゆっくり歩く機会を持ちたいもの。

☆再訪 【“松の廊下”の続きを読む】
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死んでもブレストを

 江東区で朗読劇『死んでもブレストを』。
東京大空襲を描く早乙女勝元先生の作品は、小学生の頃にも課題図書になって居たものだが、これは墨田の電話交換手たちが迎えた三月十日の物語。28名が犠牲となり、非番を含めて4名が生き残った。
墨田交換手慰霊の碑

 公演の朝、錦糸町で降りて雨上がりの道をNTT石原ビルに回る。ここにあったのが舞台となった墨田電話局。
道に面した角地に慰霊碑がある。13年後、ビルが新築された際であろうか、三月十日に除幕されている。
慰霊と記した碑の向かって左前にあるのが作家・吉川英治氏による文章。別れた妻と暮らしていた吉川氏の養女も空襲で消息を絶っている。後妻と共に焼跡を捜しまわったという作家は、慰霊碑の除幕式にも参加、数日後に新たな碑文の依頼を受けたという。向かって右前には生き残った交換手が90を迎えての文章が刻まれる。
 以上は、ビルの角地の植え込みに囲まれてひっそりとたたずんでいる。
NTT石田ビル角

四つ目通りに出て、小名木川や横十間川を越して江東の公演会場に。この辺りもみな焼け野原だった筈。当時の地図をよく見ておけばよかったと後悔。
錦糸公園という大きな公園があるが、帰ってから調べたら大空襲の犠牲者一万人が当時仮埋葬された場所だったという。

 今回図書館で『電話交換手たちの太平洋戦争』という書を見つけた。
生存者の証言と記録をもとに、想像の翼も広げた小説であるが、8月14日に名古屋では全て自動交換方式になった、など興味深い当時の状況が記される。
屋上から放水して延焼を防ぐ装置が、墨田の話にも出て来るが、このドレンチャー装置が交換手たちの命を護った例、「鎧戸さえあればもっと持ち堪えられた」と主任が嘆く“鎧戸”が交換手の非難を阻んだ実例も記録されている。主任の言葉は交換手を思いやることより、あの段になっても戦争の生命線である通信死守を意味したものであったこと、事実、敵機情報、各種警報、応戦命令といった機能が全て交換手たちが守る電話回線に依っていたことを改めて認識する。三年ほど前になろうか、『法然と親鸞』の稚内巡演で会館の裏手の丘の上にその記念碑があり、玉音放送後に起こった悲劇を初めて知った。樺太・真岡町の交換手たちの話もこの本には記されていた。
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