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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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松陰室

松陰肖像の左は山県の書

 
 青森の会館から弘前の幼稚園に電話を入れた。
弘前のホテルと会館の途中にある養生幼稚園の中に、吉田松陰が立ち寄った部屋が残されているのである。
事前予約の上、100円の拝観料で見学できる。
 松陰室前庭

 今庭に工事が入っているのとこの夏、畳に青黴が生えた後始末が完全でないので、と渋る様子だったが滅多に伺えない事情を汲んで許可して頂いた。
 ホテルに着いた足で向かうと、部屋は幼稚園の門を入った直にある。養生会の男性が待っていて下さった。

松陰らは、この弘前で二日に渉り伊藤広之進宅を訪れ国事を論じた。屋敷を買い取って養生幼稚園を始めた親戚筋の伊藤重が、この部屋を松陰室と名付けて保存したのが今に残る所以である。部屋の襖には、松陰の漢詩などが地元の書家の筆で見事に記されている。
養生幼稚園と松陰室正面

幼稚園は117年の歴史を持ち、門構えは古を残すが、園舎は数年前に建て替えられサッシづくりのモダンなものになっている。古めかしい建物に父母から苦情があったともいう。
 
  吉田松陰の東北旅行は、161年前。藩の手形発行が遅れたが共に旅立つ熊本藩・宮部鼎蔵らとの約束を尊重、脱藩して予定の日程で旅路に着いた。非常の人である。
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シイラ礼賛


 石巻訪問の後、石巻の魚屋さんが仙台市街に出す居酒屋の暖簾をくぐった。

 カウンターの角に座ると石巻を中心にした地図、今日の旅程を思いつつ改めて石巻周辺の地理を確認する。
地図の上には平成元年秋から始まった“いしのまき大漁まつり”のポスター。回数から勘案すると震災前年の秋のもの。
店内の壁や天井には、大漁旗と共に石巻での催しのポスターが所狭しと並ぶ。石森萬画館の009の展覧会ポスターも向うに見える。

注文は先ずシイラ。

 シイラは夏が旬。国内でよりも、ハワイの料理店でマヒマヒの名で接する方が馴染みがあるが、国内でも知らず知らずにフライなどで出回っているともいう。もっとも刺身で食べられるのは未だ産地に限るようで、機会を狙っていたのだが、期待に違わぬ味わい。相場の3,4倍の厚切りで提供するこの店の流儀が嬉しい。魚を食べている気がする。

 その日入った魚をお客さんが競り落とすイベントも呼び物で、店内が一体になる。
 
 この店には三度通って、石巻の秋の海を満喫。最終日はシェフのお勧めに任せたところ、エイ鰭の揚げ浸しに始まり、
シイラ、鮭、鰹、マグロ、穴子に蛸の盛合せ、鶏の揚げ煮、焼き牡蠣、とフルコース。まだ試していないメニューもあり、シイラももう少し食べたいところだったがすっかり満腹。
またの機会を楽しみに店を後にした。

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伊達バイク顛末

伊達バイク顛末
 電動アシストの自転車など邪道と思っていたが、石巻で初めて体験してみると、初動の軽さと登り坂の快適さは代えがたい。特に信号待ちなどで止まった後のペダルの軽さは癖になりそうである。
日和山からの急坂の下で初のアシスト自転車

 石巻での電動アシスト初体験委味を占めて仙台市内のレンタサイクルDATE BIKEに手を出してみた。
富山でも似たようなシステムを見かけたが、この仙台のと同じ系列が江東区と横浜にもあるらしく、日切り意を利かせてかDATEをだてと読ませている。車輪は石巻のより少し小さく見えるが試しに乗ってみた青葉山の下り道ではブレーキを離すと軽く時速40kmを超すようだった。車の往来のないところで停車を試みると少し弾んで止まった。ハンドルの制御に気を付けるに如くはないと自戒。
 翌日の昼公演後は、桃山の威風を遺す大崎八幡宮へ。桃山の香り大通りに現れる大鳥居

通りに面したマンションの隣に突如大鳥居が現れる。ここで川村孫兵衛が仙台市街の用水路をも整えたことを知る。序に子平町にある林子平の菩提寺を訪ねると、此処は『リンゴの唄』の作曲者万城目正氏の菩提寺でもあった。作詞者サトウハチローの記念館は北上のふるさと民俗村の下に建つ。
 その翌日が、いよいよ本番。貞山堀への長征である。
仙台駅傍の有人ステーションで、一日1000円コースのレンタル。
 
 貞山堀の方までと言うと、電源を節約するようアドヴァイス。平坦な道は電源を切って騙し騙し走ったので、帰路は全速力で飛ばしたが50%ほど残して仙台に戻れた。都合約9時間漕ぎ続けとは言え、電動アシストでなければとても叶わなかった走路。。
石巻より車輪が小さい伊達バイクたち。手前が最初に乗った111号

 各地にこのシステムが増えれば、今までより小まめに街を見て回れる。その為には乗り手のマナーの向上もさることながら、現状に見合うルールや専用路の整備が必要だろう。
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ペデストリアン・デッキ



 仙台駅前の巨大な陸橋をペデストリアン・デッキと呼ぶ。
最近では似たようなものも多く、わがホームタウンの駅にもずっと小規模なペデストリアン・デッキがあるが、
初めて仙台を訪れた頃は今よりずっとインパクトの大きなものだった。定禅寺通りとこの空中回廊が仙台市街を象徴している。

 戦災復興都市計画の中で駅を160m後退させて駅前広場を広くとる計画が、最終的に9mの後退に落ち着いたための苦肉の産物である。この歩廊の下はバスセンターになっている。
 
 駅前ホテルで朝食をとりながら、この構造物の名を確かめた司馬遼太郎氏は、「はい、そう申すのだと聞いております。」というウェイトレスの返答に、流石学問の都の女の子だという感慨を抱いている。ここに立つ度にこの文章を想い出すが、学都の女性といえど、こんな言葉遣いはもう聞けないだろう。
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貞山堀

 いよいよ貞山堀へ、というものの、どの道を行って良いやら地図もないままに、とりあえず名取川河口の見当を目指す。結果論では4号バイパスを只管亘理大橋まで走ってから海沿いの道を探りつつ引き返してくるのが正解であったかもしれないが。

 ちょっと堂々巡りもしながら漸う名取川に出る。途中太白区の表示にぶつかった時には見当はずれの方角に来てしまったかと慌てた。仙台駅から南西方面にある八木山動物園が太白区、今は南東の方角を目指している。後で確かめると、太白区は仙台市をほぼ横断しているのだった。

名取川沿いの松並木は灯台の代わりにもなった

 名取川の土手を只管河口へ。途中あんどん松と呼ばれる黒松並木を越すと河口に至った。
河口から脇から続く流れには『中貞山運河を直しています』の看板。名取川河口に始まる貞山堀
突堤に見上げる津波到達標高も今までになく高い。名取市のレンタサイクルを止めて石地蔵をスケッチする人。
 自転車を進めると今しも四角く盛り上げた丘の上に神社が勧請され、すぐ脇には京のお寺さんのボランティアが瓦礫を片付けている。閖上

反対側には花畑にコスモスが咲き乱れる。丘の腹に刻まれた“閖上”の文字がすんなり読めるのは津波のニュースで何度も耳に眼にしていたからだが、その地名と地理とがこの時初めて結びついた。
気が付けば足元は一面の住宅基礎
気が付けば夏草が生い茂る足元は、一面、土台のみが白く残る住宅地跡。仙台堀の河畔に立てばスレートや瓦が、あるいは煉瓦が、岸にも流れにも散ったままだ。
海岸線には長大な堤防工事が臨まれ、大型トラックが行き交う。工事による立入禁止で堀に沿って走ることは難しい。空港の二つ手前の橋でようやく堀端に出たが、土手の道は崩落の為通行止めの立札。
 大回りして空港右の橋へ、ぐるりと回ってトンネルをくぐる。滑走路を臨むと、あの日TVで見たじわじわと飛行機を浸していく泥波の様が浮かぶ。空港でやっと名取市岩沼市の略図を入手。

 空港脇の橋側には立札がなかったので名取川の方へ土手を走ってみたら先に見た通行止めの立札のところまで行ってしまった。アスファルト舗装された道には草が茂り、自転車が半分沈むほどの陥没や、舗装だけ残して下の地面が空洞になっていたり。拳がすっぽり入る穴の下は空洞
戻って草の中をさらに下ると五間堀のあたりで、丸太に遮られて道が途絶える。相の釜橋に戻って堀を遠望しながら大型トラックの行き交う道を亘理大橋まで。沿道の地には”除塩作業中””がれき撤去中”などの黄色い幟が翻る。
とうとうこの後は堀に近づくことは出来なかった。阿武隈川に達したのはもう五時前。空港で休憩した三十分を除いて七時間半ほど漕ぎ続けたことになる。
 予定していた竹駒神社、金蛇 神社も見捨てて岩沼市街から四号線をただただ走り自転車を返却したのは六時過ぎ。駅の側で見付けた土井晩翠の菩提寺を一寸覗いた。
沿岸は普請中

 嘗ては貞山堀沿いの殆どに自転車道が伴っていたようだ。もう一度ここを訪れたい。
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八木山再訪

夜のゾウ

 搬入前にバスで駆けつけて雨の中駆け足で回ったのは。もう7年ほど前。
木金土と行われる”夜の動物園”の最終日が昼公演だったので、行ってみることにする。
仙台市内のレンタサイクルDATE BIKEに登録して青葉山を越える。結構な傾斜で、帰路、夜の山道に一寸不安が残る。

 普段の切符売り場ではなく、白いテントの入場券売り場が仮設されているが料金は通常通り。
シュールな木像も独自の雰囲気
まだ明るい17:20に入場して一巡。七年前は雁舎へ回る道は、まだ今のように舗装されていなかったように思う。
 夜の動物園には登場しないゴリラやキジなどは17時で展示を終えて会うことは出来なかった。開園以来のスター・インド象は推定59歳で昨夏死去し、アフリカ園の象たちだけが残されている。昼のゾウ

このアフリカ園は天王寺と同趣だが、アフリカゾウの向こうに通天閣が見える天王寺―それはそれで雰囲気があるのだがーよりロケーションに軍配が上がる。ベーブルース像も健在。今回は泳ぐ様も

横から泳ぐ様を見せる白熊プールは前回貸し切り状態だったが、今夜は立錐の余地なく親子連れが犇めく。

宵闇迫る

 入園から一時間、雲が茜色に染まり、各所に置かれたバッテリーに灯が点ると、
長い影を引くキリンやライトアップされた木立に浮かび上がる象のシルウェットが演出される。
牙の履歴を語る。なかなか重かった。
向う側の牙は根本しかない

象舎の前では折れた象牙を持って飼育員さんが解説。片牙の象ベンのもの。由来を聞くと、十年ほども前の失恋に纏わる事故とのこと。両牙折れたうち右だけは伸びて来たが、左は未だ。

 日暮れて、北極熊と日本猿には氷が与えられ、その持て扱いがまた興味を引く。氷の中には餌が入っているらしく、猿たちの氷の所有権は目まぐるしく替わる。氷を抱える猿

夜に入って入園者は続々増え、9時閉演の予定が三十分延長される旨放送が入る。
が、レンタサイクルは9時に返却、道が混まないうちに山を越えなければならない。
二度目の八重山を後にした。
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202段

 朝食を終えて、昨日行き損ねた塩竈へ。今日は仙台夜公演。
仙石線は、石巻まで走っているのは極一部の列車で大体は途中折り返し運転をバスで繋いでいる。
が、本塩竈辺りは仙台から普通に電車で届く。仙台と石巻の丁度真ん中あたりが松嶋だが、塩竈は同じ松島湾に面した少し仙台寄り。塩竈駅頭に立つカツオ像

 塩竈神社は奥州一之宮。駅から続く参道沿いには伊勢物語など塩竈を描く歌や物語が文学碑に並ぶ。塩竈は“藻塩焼く”歌枕の地。趣ある建物も残る。店頭の大きな樽の脇に大震災津波到達の碑が見える。
 高台にある神社への登り口は三つあるが、一番奥の表参道202段の石段を登る。
この社殿や市内に残る大崎八幡宮は、他所に遺らない桃山風を色濃く映しているという。狛犬もそれぞれ個性的。林子平工夫の日時計が奉納されている。
亀井邸の上がり框
神社の博物館を出て下ると亀井邸という和洋折衷の旧家が無料公開されている。大正の建築乍ら時代の美意識を感じさせる貴重なもの。石巻のかんけい丸や塩竈でも解体の危機に晒された建築の保存が叫ばれているが、現実はなかなか厳しいようだ。
 ほど近くにある御釜神社は、製塩に使った釜を祀る。お釜様
司馬遼太郎氏がここを訪れたのは30年近く前の筈だが、境内を掃く女性は、氏の文章に出て来る“陽気な奥さん”がタイム・スリップして飛び出してきたかのようだ。

 塩竈港は本塩竈駅を挟んで反対側。ここを訪れたのは、貞山堀の始まりを見届けるため。石巻から聊か断続もしながら阿武隈川まで結ぶ貞山運河は、貞山公・伊達政宗と川村孫兵衛とによって着手され、最終的には維新後に完成した日本最長の運河。この塩竈から始まる御舟入堀は、名取川以南の木曳堀と共に藩政時代の土木による。
塩竈港から南行する貞山運河

仮設の市場となりのフェリー発着所・マリンゲート塩釜より向うは堤防工事中、堀の跡を確かめるのは難しいかと思ったが、少し南側の道路を歩くと、土嚢が積まれた歩道の向こうに堀を確かめることが出来た。
道路わきには土嚢 塩竈港近くのモニュメント 塩竈駅前のモニュメント

港の手前に復興の鐘というオブジェがある。鐘を下げた小塔の高さが津波の高さだという。
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加速装置

サイボーグ連合

北上川の終点、石巻は、仙台市内からバスで80分くらい。往復切符なら1500円。

石巻駅に近づくと市役所壁面に009の姿が
“みんなが一つになる時”という言葉とともに翻る。
駅から続く道のキャラクター像はもとより、市内の彼方此方に石森萬画館への道標が建つ。道しるべも009

旧北上川の中州に建つ記念館がこの街のへそとなっているかのようだ。
 石ノ森より手塚、東映特撮より円谷プロ好みの私としては、
さほど思い入れのある世界ではないが、それでも道に立つ像たちは皆旧知。
石ノ森章太郎も街角に立つチョビンやロボコンの側に建つ津波到達地点のいしぶみ

 石ノ森キャラクターに導かれるように歩くと四つ角に
タイル張りのレトロな建物が眼についた。
復興ステーションかんけい丸。繋がりの意味で名付けたのかと思ったら、

千石船おの船頭が昭和五年に建てた百貨店ビルで本来は観慶丸という字が当たる。
かんけい丸の角にレンタサイクル
趣ある建物の前に自転車が三台ほどにレンタサイクルの貼紙。お伺いすると
「只です」との答え。初めての電動アシスト車の扱いを教わって日和山へ。
日和山山頂の銅像土台もずれたまま

 湊町には必ずある日和山だが、思ったよりも急な坂道。
自転車がなければ時間を食うところだった。標高56m。チリ地震津波の碑

芭蕉、賢治、新田次郎らの文学碑も建つ。宮沢賢治は
初めて海を目にした感慨を記している。毛利旧臣・川村孫兵衛


 海に注ぐ北上川を指さす像は川村孫兵衛重吉。
氾濫原になっていた北上川の流れを改修して石巻港を築き、
貞山堀と呼ばれる長大な水運を構想し、鉱山開発もした超人は、
関ヶ原で落剝した毛利家の浪人。孫兵衛と北上の碑

 
 孫兵衛が開いた川にある中洲もここから臨める。
中瀬と呼ばれる洲は、後世別の土木家による仕事で
司馬遼太郎氏には“入らざる土木の標本”とまで酷評されている。

 日和山から臨むと北に継ぎ足された部分に宇宙船が降り立ったような
萬画館があるばかりで南側は洗い流したよう。
実際津波の折には萬画館の一階まで浸水し中瀬は全て水を潜った。
精巧なトキワ荘模型
中瀬のほぼ中央に白い天使像のようなものが見えるのが気になったので
日和山を降りて中瀬に向かう。
 現・登米市の石森に生まれ育った
章太郎は一時間かけてこの中瀬にあった映画館に通い詰めた。
石ノ森萬画を生み出した手

その縁からこの洲に萬画館が成った。周知のことだが、出生地・石森は
“いしのもり”と読み、改名前の“石森”姓も本人は
“いしのもり”と読ませるつもりだったのである。
この洲がマンハッタン島に似ているというので、萬画家はマンガッタン島とも呼んだという。
石ノ森萬画館の前に何故かこの人が
天使のように見えたのは、半壊した自由の女神像と判明する。
公園開発のシンボルとして建てられた像は横腹から骨組みを見せて痛々しい。
中瀬に建つ自由の女神

 石巻を訪ねたのは、明治出来のハリストス教会に会いたかったから。
萬画館の隣にその建物は外観を保っていたが内部の被害はひどいらしく
改修の為すっぽりと覆われていた。ハリストス教会


 時間があれば塩竈に廻ろうかとも思っていたのだが、
足が出来たので以前から気になっていたサン・ファン・バウティスタ号を目指す。
中瀬から反対の橋を渡ると7km余りの表示。
市民会館の緞帳も、サン・ファン・バウティスタ号
後から地図を確かめるとJR二駅ほど先だった。
未だプールを使用できない小学校や草原にポツポツと建つ新築、
ひん曲がったままのガレージ、笠木島木が落っこちた石鳥居などを眺めつつ、
標識だけを頼りにペダルを漕ぐ。頭を落としたままの鳥居

 慶長遣欧使節団の復元船は、津波を乗り越えて大破を免れた。
資料館とドックは十月の出航400周年を目指して修復工事中。
船を上から見下ろすだけだが、ようやく想いを果たした。サン・ファン・バウティスタ号


 中瀬の橋の袂に戻ってサンファン号とは反対側の標識に記された
市民会館を捜す。道行く人たちに尋ねるとこの三月取り壊されたとのことで
更地にそのあとを確認することになった。石巻市民会館あと

市民会館は老朽化の為、築44年の2011年三月末で使用を停止、
取り壊しが決まっていたが、その日を待たずに被災、お別れの
吹奏楽に送られて四か月前に姿を消した。記憶はないのだが、
『出雲の阿国』や『さぶ』でお世話になった小屋だった。
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よーそろー ―ヤマト取り舵

 『ヤマト2199』と言うと続編のように聞こえるが、オリジナル・ヤマトの旅立ちが西暦2199年だから、そのリメイク版。
 この時期に遊星爆弾とコスモ・クリーナーDを持ち出すのかと違和感を感じたが、そこは地球環境再生装置といった表現に替えられた。 雪以外の女性乗組員の性格付けなど、ディテールを整え、続編以降の登場であった土方や山崎も部署を得ている。前作で整合性を欠いた部分を周到に正当化している。
「人類絶滅のその日まであとー」というカウントダウンがないのは聊か寂しいが、数日前に帰って救われる絶滅の日とは何を基準にしているのか当時でも不審に思ったのだから致し方ない。
 が、丁寧な後付に好感を憶えるとともに、旧作の穴ともいえる余白部分が受け手の想像力で補われていたのも捨てがたい。今よりキャラクター付けも甘かったのに、南部も太田もそれなりの存在感を持って記憶にあるのである。


前作より早い展開で、オリジナルが予定短縮のためにオミットした艦内クーデターなどのエピソードも拾っている。
とは言え、原作者裁判で松本零士氏が外され今回も一切クレジットされない中では、古代守がハーロックになって現れる3クール版の設定は望むべくもない。

コスチュームの縫目に見受けられるエヴァンゲリオンなどの影響や、オリジナル時代の乗組員はしなかった表情が現れたり、といったアニメ表現の流行が透けて見えるのも面白い。

 前作と切っても切り離せない『真っ赤なスカーフ』は艦内ラジオなどで流れる懐メロという設定となり、複数のエンディングテーマがリリースされるが、後半に入ってオープニングテーマを変更、オリジナルの展開への布石を打ってきたようだ。

太陽系方面作戦に従事するのは二等市民である被征服星人であるという設定をはじめ、独裁国家ガミラスの内情にも踏み込み、異星人交流も描かれていくようだ。
この手の作品で戦争の悲惨を如何説いても、戦闘場面の爽快感や行動の美学的なものは必ずついて回る。
与えられた航行推進エネルギーを波動砲という武器に転用した罪深さは「波動砲は平和の武器だ」という自己撞着した台詞では拭えない。余りにも皮肉な設定ではある。
呉のミュージアムで戦艦大和のレプリカを見て、この波動砲の位置に本来菊の紋章があったことを迂闊にも初めて知った。ヤマトを飛ばすについて、この部分をどうするかという議論の中から波動砲という着想は生まれたのだろうと思っている。
ガミラス戦の戦端を開いたのは地球側、という設定がどんな意味を持って舵を切るのか、期待したい。

 尤も太陽系方面だけでなくデスラー総統含めたガミラス人全体が、ヤマトが太陽系を出るまで黄色に描かれていたので、製作途上で設定が変わったのは周知の事実。ヤマトが外宇宙に出て来たので青くなったのだ、という旧ヤマトファンたちの大らかなジョークもまた私には捨てがたい。
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遠野物語の家

 先日歌舞伎座に着いた時はまだ第一部の開演中、
向いの岩手県アンテナショップ銀河プラザで、全粒粉を2kg買った。
観劇前に荷物を増やしたのはちょっと失敗だったが、古民家などを移築した
ふるさと民俗村の存在を此処で知った。

 ホテルから北上駅を越して歩くと線路にほぼ平行の位置に北上川が姿を現す。
珊瑚橋という黄色いゲルバー橋が工事中なのは先だっての豪雨の為だろうか
ゲルバー橋

道なりに弧を描いて右に進むと水運の平田船の帆影や北上夜曲の碑のある一角に
ふるさと民俗村の看板が現れる。この村の初代村長は、
泥ガメさんと親しまれた岩手出身の森林学者、高橋延清氏。   


坂を上った旧今野家住宅が受付所。
左の博物館ではこの流域の自然や歴史が再現される。平田船と呼ばれる水運は、
明治中期の鉄道開通でその役割を終えている。
平田船
カラス貝とイワナたちの共生関係、外来種による環境変化が興味深く展示される。
北上川は石巻で海に注ぐが、江戸期の運河によって流れを変えている。
川の流域図を見ていると矢張り石巻に行ってみたくなる。
銀河ホール前の錦繍湖に巨大なタニシが

 消防資料館では近現代の消防資料が一望。
他所では見られないクラシックな消防車たちが良い顔をしている。

 民家群は、遠野物語ゆかりの家や竪穴式住居の再現など
あちこちから移築されたものも多いのだが、この地は伊達と南部の藩境で、
渓谷を隔ててそれぞれの藩境塚が国の史跡となっている。藩境塚

人馬一体感を醸す南部曲り家など、廊下から拝観するのでなく、
どの部屋にもずかずかと入って座れるのがありがたい。

 舞台で使われる装置の民家はディフォルメされていて、入座したての頃は、
実際にはこの家はどうなっているのかよく理解できないこともあった。
寝部屋で見上げる天井や流しの様を実感できる機会は貴重なもの。
風呂の残り湯は肥料として畑に撒いたなどという
生活実感溢れる情報も提供される。
馬の耳まで覆う頭巾や橇に載せた龍吐水などが雪国の生活を想像させる。
窓税のあった時代、窓は贅沢品だったことも住宅の造りが語る。
 
藩ざかい

 日が傾いて渡り返す北上河畔には灯籠が数基。今日が灯籠流しの模様だった。
 
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第五期歌舞伎座ロビー

木挽町に着いたのは、まだ第一部の開演中、
向いの銀河プラザを覗いて、全粒粉2KGを購入する。

偶の開き日に家でぼっとしているくらいなら歌舞伎座で寝ている方が増し、
とばかり、先代歌舞伎座にはお世話になった。
実際所作ものなど客席で前後不覚になっていたこともあった。
開場から三カ月は三部制だったから、七月の二部制が変則のように見えるが、
本来?三部制はこの八月納涼歌舞伎のみ。天王寺屋も中村屋も居ないことに今昔の感。


 最近、木挽町の劇場を新歌舞伎座と表現されることが屡あって、
“新歌舞伎座”と言われると大阪や歴史上の名古屋の劇場が浮かんでしまうので
違和感を感じる。せめて新・歌舞伎座と区切って言っていただければいいのだが。
それはさて置き、第五期新生歌舞伎座のロビーに初めて足を踏み入れた。
これまでは幕見ばかりだったから、ロビーを見るのは今月が初めて。

 その足で上手側ロビーに行き、平積みになった
縦長の簡易パンフと来月以降のチラシを入手するのがルーティーンだったが、
ぐっとコンパクトになった上手ロビーは土産物売り場で立錐の余地もない。
簡易パンフを持って三階のスタンドで珈琲を頼むとマスターが
丸いビスケットを二枚添えてくれるのが、開演までの時間だったが、
思った通り、簡易パンフもそして三階の珈琲スタンドも消えていた。


 二階から三階へは階段もなく一人幅のエスカレーターが上下するのみ。
上下が手狭になって珈琲スタンドがあった空間自体が取れないのだ。
随分と世知辛くなってしまった。

 幕見席はちょっとゆったりしたように感じたが、三等B席の狭さは相変らず。
この日の二部三部に限って言えば、幕見席も余裕があるのを見て申し訳ないがほっとする。
劇場を見に来るお客様が一段落したのだろう。

幕見にも何時間も並ばねばならぬ事態が続くと、
先の予定を立てにくい私には敷居が高い。
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