もう一つはずっと時代を遡って鎌倉時代の曾我兄弟。
310年ほど前に起きた“赤穂事件”をフィクショナルに構成したのが”忠臣蔵“。
事件発生47年目に上演された『仮名手本忠臣蔵』の題名によって
事件そのものをも忠臣蔵と呼ぶようになった。
興行が振るわない時でも出せば当たる、芝居の世界の特効薬と言われた『忠臣蔵』。
戦後、他の二つは忘れ去られても赤穂浪士だけは繰り返しドラマや映画に取り上げられ
日本人の心の故郷とまでいわれた。
が、近年は流石に『忠臣蔵』って何?という向きも多い。
試みに高校時代に使った三省堂の『日本史』を開いてみても赤穂事件の記述はない。
ドラマや小説などが広めた“一般常識”だったわけだ。
47人という多人数(元々の浅野家300余人から言っても六分の一ほどが参加したことになる)が、
二年近い年月、志を保って行動した事実は一つのミステリー。浅野内匠頭という一人のためだったのか。
それが美談として推奨される感性が生き残って時代から、
理解不能と切り捨てられる時代に漸く差し掛かりつつある。
47人のテロ集団である側面を“義士”たちは持っている。
『元禄忠臣蔵』全十篇が書かれた戦時下は、“主君の仇討”が充分まかり通る時代だった筈。
が、真山青果はそこに居座らない。
討入りの決意を内蔵助が語る言葉は「ご政道に逆らう心算だ」である。幕府への異議申立。
『御浜御殿』にもあるように、吉良殺害が目的でないことが、
繰り返し説かれる。己に恥じない手順を踏まなければ意味がない、
事の成否は二の次であると。討入り後の『仙石屋敷』18ヶ条申開きに於いても、
テロ行為である側面に目を瞑らない。
広範な資料に徹した作者の筆は、思想信条を超えてそこまで踏み込まざるを得なかったのだろう。
今読むと『元禄忠臣蔵』には、集団が事を成すとはこういう事だという典型が描かれているのが判る。
大石内蔵助とは、こういう人物以外ではありえないと、ねじ伏せられるように納得する。
それは独り内蔵助像に留まらず、“不義士”を含めた群像にも通底する。
前進座ではこの後、五味康祐(ごみ やすすけ・通称こうすけ)原作『薄桜記』が控えている。
これまた視点を変えた『忠臣蔵』の世界。この世界は、まだ汲み果てない魅力を見せてくれそうだ。
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