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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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ウィズ・ザ・レインボウ

 早朝のコナ空港からホノルルへ。19時間を巻き戻す長い一日の始まり。

 ちなみにコナの地は、希少なコーヒーで有名。火山性の土壌と一日の気温差が栽培に適するという。我が国でシーボルト事件が起こった頃に、ブラジルからハワイ島に齎された珈琲は、のち日系移民の活躍もあって、コナの地に根付いた。
コナコーヒー資料館

 尤も私は最初に「ハワイと言えば、コナコーヒー」と聞いたとき、珈琲が粉なのは当たり前じゃないかと思った門外漢。元々コシヒカリとササニシキを食べ当てる能力も趣味も持ち合わせないから、この五日ほどはなんだか美味しい気がしながらコナ珈琲を飲んでいたが、聞き珈琲をさせられても当てられる気遣いはない。

 飛行機の窓の下あたりに虹の輪がずっとついてきて、雲があるとその表面に姿を現す。二年前のカウアイという島は、多雨の所為か虹の景色を多く見たが、ハワイ島では一度もその機会がなかったのに心付いた。こんな処もそれぞれの島の特性かもしれない。 

 前回もホノルル空港の乗継で戸惑ったのだが、今回も不安に駆られつつようよう辿りつく。手引書などが説明していることがあまり参考にならない。

 何がさて、帰国の飛行機に無事乗り込む。
離陸したところで、カメラの時計設定を到着地に戻す。無事着くかどうか、あとは機長任せ。

 全然違う環境に帰ってきた。と言いたいところだが、
自宅付近の夜明け前にもワイコロアと同じ匂いを嗅ぐことある。
 今飲んでいる珈琲が切れたら、コナの珈琲を立ててみよう。
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闇鍋

 今回はポケを食べそこなった。
ポケは、刺身の角切りのハワイ風ヅケと定義したらいいだろうか。

 元々が魚好きなのだが、海の傍にいる以上は猶更海のものを食べたい。
アメリカだからと言ってステーキを食べる気には余りならない。
 鮪やシイラが主になる。ハワイ語では、それぞれ、アヒ、マヒマヒ。
SHUTOMEという魚もメニューに登場した。難しい人間関係を連想してしまうが、
ソード・フィッシュだという。白身の魚を食べて帰宿後にコンサイスを引くと、カジキマグロ。
ワインセラーがそのままインテリア

 疲れからか、左目に痛みが出てコンタクトを入れられず、右目だけの独眼流。
只さえ判り難い横文字メニューが尚わからない。
イタリアンの店で、食材からオーダーできるシートを受け取ったは良いが、
周りのオーダーが終わっても読み切れず、半分盲滅法チェックを入れる。
まるで闇鍋。
この組み合わせは無理、ということはないのか知らぬと思ったが、
出てきた皿はゲテモノではなく、シュリンプとスピナッチにガーリッククリーム和えのパスタ。
まあ例えゲテモノが出てもそれも旅の楽しみ。

 何れ、誰もが翻訳機片手にスラスラ会話する時節が来るだろうけれど、
その暁には、不自由な片言会話で五感から得ている表情やニュアンスや空気の
感度はぐっと鈍くなってしまうだろう。そう思うと、今の不自由は贅沢な経験かもしれない。

 機械のふとした誤訳だけを鵜呑みにしたために起こる『翻訳機殺人事件』、
そんな近未来小説が書けるかしらん。

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竜宮

 前回、初めて素潜りをしてみて、
海中の景色に味を占めたので、出発前にスノーケルを奮発した。
今回そういう機会があるかどうかも解らなかったが、駄目元と思って一寸良いのを購入。
悠然たるウミガメ。甲羅を藻が覆う

宿からそう遠からぬ岩場で、海亀に遭遇。
人が近くにいるのもお構いなく、岩に着いた藻を食べ続ける姿は悠々然。
身体が触れ合っても、魚がぶつかったほどにも思わないらしく
一寸位置を変えるのみ。
寄り添うように泳いでいると此方の泳ぎもすっかり海亀のリズム。
うっかり足の着かないところまで付いて行ったら大変と、
時々岸を確認するが、竜宮へ連れて行かれることはなさそうだった。
遠洋に出るウミガメと沿岸型の海亀とは種類が違うらしい。

 この岩場には、もう一度行く機会を得たが、
二度目には三頭の海亀と遭遇。
近づいても気にも留めない
トド、二頭が陸に上がって昼寝をはじめた。
ウミガメに関しては満喫した。

 バフンウニ系とムラサキウニ系と二種類のウニが、
足の着く岩場にびっしりと生息。
一本の棘をノックすると、全身の棘をプルプルと震わせる。
ヨウジウオやチョウチョウウオ、箱河豚、岸に近い岩場で様々な魚に出会えた。
フムフムヌクヌクアプアアという舌を噛みそうなハワイの象徴魚にも遭遇。

 先端に弁の着いたスノーケルは快適。次に使う機会が何時来るかは、甚だ心許ないが。
ヘルメット雲丹

 最終日に行った北部の岩場には、窪みに打ち上げられた
海水がすっかり白い塩になっていた。
住人達もいささか違うらしく、丸い生き物が無数に蔓延る。
松本零士が『ワダチ』で描いた樹木への寄生生物が丁度これと生き写し。
ヘルメット雲丹という名の如く、正にヘルメットの回りに触手がついたようで、
群生する姿は少々不気味。

 塩の乾いた岩の上に岩で組まれた墓が一基。
そう思ってみると、路傍にも時々墓の様なモニュメントものがある。
この島で海洋葬でもして眠る方たちだろうか。
北部の砂浜に物騒な看板も

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ダーウィンが来なかった島

 雨かと思ったのは、ヤシの葉擦れ。
夜明け前の風は特に激しい。
ハッカは他の島にも住む

 ラナイに佇むと、鳥たちが姿を現す。
頭の赤いコウカンチョウや黄金色の小鳥も鳩も文鳥もいるが、
圧倒的に幅を利かせているのは翼に白いフのあるハッカ。
同じムクドリ科とて顔は九官鳥そのもの。
走り去るマングース
虫を咥えたテンが眼の前を横切る。
調べたらハワイ島にイタチもテンも生息しないとのこと。これがマングースだった。
絵で見た記憶のマングースはもっと大きくてずんぐりしているように思っていたが
シャープなフォルム。
彼のテリトリーの様で、同じ道を行く姿をあと二度見ることになる。
マングースは元々はハワイ島の住人ではない。

 ビーグル号がハワイ島に来ていたら、進化論はこの島で構築されたろう
と言われる程、他の諸島とも違う独自の生態系を持っていたビッグ・アイランド。
行き来する人について鼠や蚊たちが上陸してしまった。

 マングースは御丁寧なことに態々人が連れて来た。鼠を駆除する目的だった。
が、鼠は夜行性、マングースは昼行性。
生活時間のすれ違った彼らは鼠を捕らずに島固有の鳥たちを捕食したという御粗末。
古の生態系破壊事件の名残である。

 もっとも生態系破壊はハワイ島に限らない。
“ガラパゴス化”などと例えに使われる本家進化論の島も、
外来生物による生態系破壊に悩まされている。
お気に入りのヤシ

ちなみにハワイ島では、保護区を造って固有種の生態系を守る努力もなされている。

 蚊以外の虫もこの辺りでは余り見掛けなかった。モンシロチョウを三度見たばかり。
元々固有はカメハメハアカタテハ、ハワイシジミの二種ばかりだったらしい。
南部の方にはアゲハなども住むという。
朝の強風を思うと何処でこの風を凌いでいるのか不思議なほどだが、
南関東ほどもある島の気候は場所によってだいぶ違う。
雨が多いと聞いたのはどうも南部のことらしく、北西部のワイコロアでは殆ど降られることはなかった。

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三つ目の島

 
タラップを降りてターミナルへ歩く=
ホノルル発の乗継便は、離陸時間を過ぎた頃ようやく到着。
ハワイ島からの旅客と荷物を降ろして、
こちらからの荷物を積み終え漸く搭乗案内が入る。約30分遅れでホノルル空港を離陸した。
 マウイの山などを眺めつつ40分ほどで諸島の最南端、
ビッグ・アイランドに降り立った。
コークスの様な砂礫の中の滑走路を走って、民家の様なターミナルのすぐ手前で機は止まった。
バッゲージクレイムも屋根があるだけの素朴な趣き。
コナ空港

 道の両側は、コークスを敷き詰めたよう。
南関東三県ほどもある島の南側では
マグマが海に流れ込む奇景も見られるらしいが、
そこまで行かずとも未開発の火山島の特色はよく見える。
白いビル街のホノルルや、緑に覆われたカウアイとは色合いが違っている。
もっとも、バブルの頃に日本企業が買い占めた土地がそのままになっているとかで、
数年たって来ることがあったらすっかり様子は変わっているかもしれない。

 黒い地面の彼方此方にハリウッド・サインのように白く名前が記され、
やれやれこんなところでも観光客の落書きかとうんざりしたが、
これ皆ペンキなどではなく白い石を並べた文字群だった。
ワイコロアビレッジ入口にシンボルマーク

 空港から北へ30分ほどでワイコロアビレッジ。
このエリアのシンボル・マークは半円形の二つの花。
ナウパカというこの花は海辺に咲く仲間と山上に咲く種類とがあり、
ベターハーフに見立てて悲恋の伝説に彩られている。

 出発の朝は仮眠を取っただけで半徹夜状態、
機内で少々寝たものの何しろ19時間逆戻りした33時間の長い一日。
流石にほっと一息、30分ほど横になる。
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元祖?「今でしょ!」

 小学五・六年の時、教室の黒板の上に一つの標語が貼られていた。

十年ほど後に東京駅のデパートで見た『平櫛田中展』で、
寸分違わぬ文言に再会した。有り勝ちな言葉ではあるのだが、
更なる元祖があるのものか如何か。


代表作。鏡獅子は国立劇場ロビーを飾る


 田中(でんちゅう)翁は、国立劇場ロビーにも飾られる
六代菊五郎扮する鏡獅子像で高名な彫刻家。
東京駅のデパートで開催された展覧会には
半裸の菊五郎丈他、製作過程で作られた習作も並んでいた。
下帯一つで体の線を見せて稽古するというのは
九代團十郎から六代目菊五郎に纏わる修行メソッドの一つだが、
彫刻家も衣裳の下の姿から彫らずにはおかなかった。

 ちなみに、平櫛家の養子となった翁の旧姓が田中。
名字を重ねたような独特の雅号はその経緯による。
”今やらねば何時やれる 私がやらねば誰がやる“という
フレーズを教室に掲げた恩師の名字も同じだった。

 伝統の世界では“40,50は洟垂れ小僧”は常套句で、
有難いことに何時までも洟垂れ小僧でいられるのだが、
同じ言葉も翁にかかると聊かスケールが異って
60,70 洟垂れ小僧、男ざかりは百から、百から。
わしも一花咲かせたいものじゃ、となる。
六十代半ばに着手した『鏡獅子』を完成させた時は既に86叟。
言葉の通り、107歳で亡くなるまで創作意欲は旺盛だった。
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綱引

 オリンピック種目枠生き残りをかけた綱引きが連日報道された。
コメンテーターは様々なことを言うが、五輪を目指して日々を送る選手たちには、
どの種目が生き残るかで天と地ほどの明暗だろう。目指す舞台が無くなってしまうかもしれないのだから。

 今回に限らずオリンピック種目の栄枯盛衰はこの百年、繰り返されてきたことの様。
近代オリンピックの第二回から20年間は、“綱引き”もその種目に名を連ねている。

 綱引きの起源は農耕民族が豊作を占う神事だともいう。
如何にも素朴で好もしい気もするが、今復活するとしたら
“アスリート”はどんな基準で選抜され、どんな解説がなされるのだろうか。

 高校のアルバムを見返したら体育祭と思しき綱引きの写真がある。
すっかり忘れていたが、わが高校時代にはクラス対抗の綱引き大会が存在したようだ。
凡そそんなことに懸命になりそうにない同級生が、渾身の力で縄尻に取り付いている一枚。
こんな時代もあったかと、これまた意外で好もしい。
開演前。綱は奥女中たちを待つ。

 先般上演した『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』幕開きは、奥女中たちの綱引き。
この場の奥女中は達の殆どが普段女形を生業としない立役たち。
慣れない衣裳の着付けで舞台稽古は一騒動。「化け物屋敷になるかと思ったけど、
”意外に”みんな綺麗だった」とは衣裳さんのお言葉。

 この綱引き、実は青果先生の戯曲には描かれていない。
二代左團次初演以来の演出家・巌谷慎一(巌谷小波長男、三一・真一を経て慎一)氏は、
前進座初演の稽古でイキナリ奥女中たちの綱引きという“とったり”が飛び出して
度肝を抜かれたと記し、他所での上演でもこれを踏襲した。
ピタリとはまって一寸これに代わる“決め技”は難しい。
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名古屋大仏

 母校を訪ねたのは何年振りだろう。高校の校舎が大幅に改築されると聞いてふらりと行ってみた。
 この間すでに校内の彼方此方が変化している。
旧:東横線渋谷駅でのイベント。1960年代の渋谷駅周辺

営火祭の焚火を囲んだ大運動場は用途別に細分化されて、文化祭最終日の祭典は今はない。大運動場下のコートは鳥かごのようなネットに覆われている。僕らの頃にあった「余白」が埋め尽くされていくような印象。
 新たな建築物が空き地を埋めつつあることに、生徒数は変わらないのにそんなせせこましいことをしなくてもと苦情をはさみたくなるのも懐旧の情のなせる業か。
今回はエントランスの土手を削って新校舎が建つのだという。卒業アルバムのクラス集合写真で一クラスが必ずこの土手を選ぶという名所だった。我らが旧校舎は、なくなるわけではないが耐震工事と共に教室の入れ替えがあり、いよいよ在学中からほぼそのままだった教室配置は大幅に変わるらしい。
 あまり生産的な時間ではないなと思いつつ、旧通学路でも昔の名残をさがして歩いた。
 東京では私鉄の駅が相次いで大改修、駅のある街そのものが大変化を遂げつつある。一夜のうちに路線を切り替える離れ業に驚き、使われなくなった旧駅舎を最大限利用する商魂に感心し、消えて行く思い出のスポットに一抹の寂しさを憶えつつ、それでも時代は変わっていく。
 機能的になりつつ、でも何処か余白を失っていく街の中で、心の余白は持ち続けてもいいのかもしれない。
名古屋大仏。出来たのは大分前らしい

 旧通学路の外れで見つけた全身真緑色に塗られた大仏像をポカンと口を開けて見上げつつ、様々な思いが去来した。
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元禄の秋元康?

 三大仇討と言われるのは、この赤穂浪士の仇討ともう少し前の荒木又右衛門、
もう一つはずっと時代を遡って鎌倉時代の曾我兄弟。
 
 310年ほど前に起きた“赤穂事件”をフィクショナルに構成したのが”忠臣蔵“。
事件発生47年目に上演された『仮名手本忠臣蔵』の題名によって
事件そのものをも忠臣蔵と呼ぶようになった。
この一人の為に?

興行が振るわない時でも出せば当たる、芝居の世界の特効薬と言われた『忠臣蔵』。
戦後、他の二つは忘れ去られても赤穂浪士だけは繰り返しドラマや映画に取り上げられ
日本人の心の故郷とまでいわれた。
が、近年は流石に『忠臣蔵』って何?という向きも多い。

試みに高校時代に使った三省堂の『日本史』を開いてみても赤穂事件の記述はない。
ドラマや小説などが広めた“一般常識”だったわけだ。
47人という多人数(元々の浅野家300余人から言っても六分の一ほどが参加したことになる)が、
二年近い年月、志を保って行動した事実は一つのミステリー。浅野内匠頭という一人のためだったのか。
それが美談として推奨される感性が生き残って時代から、
理解不能と切り捨てられる時代に漸く差し掛かりつつある。
47人のテロ集団である側面を“義士”たちは持っている。
 
『元禄忠臣蔵』全十篇が書かれた戦時下は、“主君の仇討”が充分まかり通る時代だった筈。
が、真山青果はそこに居座らない。
討入りの決意を内蔵助が語る言葉は「ご政道に逆らう心算だ」である。幕府への異議申立。
『御浜御殿』にもあるように、吉良殺害が目的でないことが、
繰り返し説かれる。己に恥じない手順を踏まなければ意味がない、
事の成否は二の次であると。討入り後の『仙石屋敷』18ヶ条申開きに於いても、
テロ行為である側面に目を瞑らない。 
 広範な資料に徹した作者の筆は、思想信条を超えてそこまで踏み込まざるを得なかったのだろう。
今読むと『元禄忠臣蔵』には、集団が事を成すとはこういう事だという典型が描かれているのが判る。
大石内蔵助とは、こういう人物以外ではありえないと、ねじ伏せられるように納得する。
それは独り内蔵助像に留まらず、“不義士”を含めた群像にも通底する。

前進座ではこの後、五味康祐(ごみ やすすけ・通称こうすけ)原作『薄桜記』が控えている。
これまた視点を変えた『忠臣蔵』の世界。この世界は、まだ汲み果てない魅力を見せてくれそうだ。
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