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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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甘い調べ

 京都に居る間に、ピアノで弾く六段の調べを聞いた。

六段は、お正月のBGMに必ず使われるから、
曲名に覚えがない方でも、TVや街角で何度も耳にしている筈。
歌舞伎の下座でもお馴染みで、
例えば『毛抜』の弾正が閻魔大王に手紙を書く件りには篠入りで弾かれる。

 八橋検校の碑

作曲は近代筝曲の祖、八橋検校と伝えられている。
三味線からその音階を採り入れて
現代に繋がる筝曲の基を築いたのが、八橋検校。
ちなみに、今一般に“琴(こと)”と呼ばれているものは、
正確には“筝(そう)”。
元々“こと”は弦楽器の総称で、今コトと呼ばれているのは
“筝のコト”、別に“琴(キン)のコト”などがあった。

八橋検校没後、故人を偲び筝を象って造られたのが、
京の銘菓“八ツ橋”であると云うのが有力説と、
ピアニストが前節で語った。
検校逝去は三二〇余年前の話。無論幾つか説があり、
私はかきつばたの歌枕・八橋の橋を象ったと云う説が耳に親しかった。
が、浄土宗の大本山・金戒光明寺に検校の墓があり、
その参道で売られたのが始まりと聞けば検校ゆかりと云うのも説得力がある。
浄土宗大本山・金戒光明寺

 橋や筝に似た煎餅のような八ツ橋も無論知っているのだが、
八ツ橋と言われて先ず浮かぶ姿は、二つ折りの生八ツ橋。
コトに似ていると云われると一瞬戸惑う程。

八ツ橋中興の祖

この新参者―と言っても早や半世紀近い歴史を持つ―が無ければ、
八ツ橋は京土産に君臨する今の座をとうに明け渡していたに違いないのである。
 米粉、柔らか崇拝、そして多様なフレーバー、という
近年流行の三拍子を、遥かに先駆けて達成していたのだから、見事と言うほかない。

 八橋検校は、後に筝と共に三曲といわれる三味線、胡弓にも長けていた。
ピアノの六段の優雅な調べを聴きながら想いは彼方此方へ飛ぶ。
京は甘味一つも奥が深い。

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再び元旦

 千穐樂。
龍頭の船と竜神の社

今年、神泉苑に行けていないのが気になって、帰京の大荷物を抱えて南座とは方角違いの二条の方に廻る。
八橋検校の碑などを眺めつつ、御池の大通りに。この通名の“御池”は、神泉苑の池を指すと云うのが通説。
 二条城の南にある神泉苑は、嘗ては二条城の敷地も含んだ広大なものだった。池に龍頭の船を擬し、平安貴族の舟遊びの面影を伝える。
神泉苑

ここに善女竜王を招いたのは弘法大師と伝承され、雨乞いとゆかり深い。
この後、大阪名古屋から九州へと廻る『歌舞伎十八番の内 毛抜』劇中、
「小野小町雨乞いの名歌を神泉苑の池に浮かべ」と出て来るのが、この池。

歳徳神の祠が、その歳の恵方に向きを変えるのはここが唯一という。
今年の恵方は亥子。歳徳神

 鳥居を出ると、待ち合せたように四条河原町方面のバスが到着。楽屋に向かった。

 『明治おばけ暦』千穐楽は、奇しくも旧暦の大晦日。
帰京して旧正月。
一つ残っていた福茶で元朝を祝って、
さて『毛抜』『唐茄子屋』の始まりです。
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学校歴史博物館

 今年は昨年より上演時間が長い所為か、昼一回の公演が待ち遠しい。
一度目の一回公演時は、松竹座に遠征したので、何時もより遅く帰宿。次の一回公演は十日ぶりに早く帰れる日。帰り道の博物館を訪ね、買い物などを済ませて七時前に宿に着いた。

 数年前から気になっていたのが、京都学校歴史博物館。
京都市学校歴史博物館の高麗門


ここは、92年に統合閉鎖された開智小学校跡地を利用して明治二年に全国に先駆けた京都の小学校の歴史をたどる。
 学制、即ち太政官布告214号が公布されたのは、『明治おばけ暦』の舞台と同じ明治五年。明治改暦を含む改革の嵐の一環だった。
 遷都の動きによって衰退の危機感に苛まれていた京都の町衆は、次の世代を育てることを第一と考えたらしい。政府の動きに先立つこと三年、市街主要部を64の番組(町の区域)に割ってそれぞれの中心に番組小学校を建てた。
二宮金次郎

尋常小学校、国民学校、戦後学制による小学校と受継がれた京都の小学校の黎明だが、火の見櫓を備え、地域自治の拠点を兼ねていた。
魯山人をはじめとした卒業生が母校に贈った美術工芸品の数々は、他の地域とは一線を画す生徒・学校・地域の繋がりをうかがわせる。
 代々の教科書、校舎の瓦や校名の看板などゆかりの品々が展示される。当時のノート代わり、石版と蝋石も体験できる。

 当時の校舎は、寺院などに移築されたり、廃校も別の施設として多く再利用されている。
下京第十一番組小学校→開智小学校の後身である学校歴史博物館にも明治期の高麗門と他の小学校から移築された車寄せが当時の風と京の町衆の心意気とを伝えている。


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18回目の朝

 五条の老舗木造旅館の三階の部屋に寝ていたら、五時四十五分パッと眼が覚めた。
時計をみて何故こんな時間に起きたのかなと思った途端にグラリと揺れた。私服に着かえてテーブルの上に立っていたワインの瓶をおろして襖をあけると消火器が倒れていた。
TVはやがて信じられない光景を映し出した。

 改修工事で離れていた南座に復帰する前年、祇園甲部歌舞練場での初春公演ラストの年だった。『遠山の金さん』『釣女』の公演千秋楽の前日。京都の震度は5。色々トラブルはあったが、昼一回の公演を何とか無事終了した。

 同じ京都でもホテルの六階あたりにいた人は、TVが横滑りに吹っ飛んできたというし、店のボトルが全部落ちて割れていたと云う話があるかと思えば、ビクともしなかった店も。昨年もそうだったが、建物の向きやら何やらで随分違うものなのだとこの時初めて知った。

 灯し火に彩られた早朝の記念番組を京都でみることが多い。
昨年の今朝は、二月後に新たな災害が迫っているとは夢にも思わず、時の流れの速さを思ったものだった。
17年。TVでは当時小中学生だったキャスターが、震災の記憶を語り継ぐことの大切さを語っている。


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立作者―平田兼三―

 ここ南座は、出雲の阿国がかぶき踊りを始めたと云われる四条河原のほとり。
南座の発祥は、400年近く前とされている。現在の建築になったのは前進座創立の二年前。
劇団創立十年の頃、『毛抜』『元禄忠臣蔵』などで初出演している。戦後は年二回の公演が定例化していたが、
35年前『花神』で松竹提携初春公演が始まった。
 

南座・芝の浜の場

 昼夜六七本でやっていた時代も長いから十八番物、真山青果、南北、黙阿弥、長屋ものと演目は多彩。今年も上演している『芝浜の革財布』は、南座で六度目で、最多上演作品。『毛抜』『鳴神』が共に五回で後を追う。
 『芝浜』前進座初演は、戦時中の工場慰問巡演。この頃は、前進座文芸部作とされていて長屋の登場人物の名も聊か違っている。

 平田兼三作となったのは、後十数年前。
平田兼三は、本名平田兼三郎、歌舞伎座時代は竹柴兼三だった。


 松竹衣裳に勤める父と明治座芝居茶屋にいた母の間に生まれて幼時から芝居に馴染み、小山内薫の口添えで歌舞伎座狂言作者部屋に入ったのは20代後半。 雑誌『歌舞伎』の脚本募集に『研辰の討たれ』脚色で第一席当選、猿之助(二代=猿翁)主演で上演されたのがデヴュー作。以後猿之助座付狂言作者として活躍の後、前進座に参加した。『研辰―』は前進座でも上演、近年改作された『野田版―』でも平田の名はクレジットされている。

 前進座では、新しい世話物『左の腕』の創作をはじめ86の作、脚色、改訂、演出を手掛け、『歌舞伎演出論』の著作も生んだ。
来月は大阪文楽劇場で『唐茄子屋』が出るが、これも平田兼三の傑作。松竹座では正調『研辰―』が出る。没後35年、平田兼三いまだ健在である。


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アミダ小路

金箔店のショーウィンドゥ

 今年の宿は、烏丸も五条に近い辺りだから、南座までは片道20分。
例年の通勤時間の倍である。一寸二の足を踏んだが、あまり歩いたことのない界隈に住むのも一興。
 
楽屋泊まりがなくなってからは、五つくらいの旅館、ホテルに分宿するのが通例。若手は旅館の3,4人部屋が相場だった。 
近年は、ウィークリーマンション流行りで、旅館ホテル組の他に、市内5か所ほどのマンションからも南座に通っている。
 年末年始の観光にウィークリーマンションを使う方も多いらしく、手ごろな処は六日ころまで埋まっていて、少し離れた処に居を構えた。
 
普段、碁盤状の通りを基準に〇〇通上ル、下ル、西入ル、東入ル、という所書きで生活しているのだが、京の町には古の町名が健在である。近所を一寸拾っても、繁昌町、骨屋町、大政所町、二帖半敷町、神棚町、釘隠町…歴史を感じる興味深い名ばかり。白楽天町、元悪王子町、と言われ床しい町が並ぶ。
今回埋まっていてとれなかった河原町のウィークリーマンションの住所は、順風町。初芝居に順風町から通うなど、この上なく気分がよいではないか。
路地の様も古都ならでは

京の碁盤の目を阿弥陀籤のように北東へ辿れば自ずと南座に辿り着く。信号の都合やその日の気分で道順は幾通りでもありそうである。
道すがら、漆の店あり、金銀泊の店あり、木版画印刷の看板あり、病院も木造平屋の構え、今時の店にも狭い間口に鰻の寝床と京の町屋の面影が残る。碁盤目の町なればこそ残せた地名もまた、街並みに豊かさを添えている。
南座の建物は文化財だが、京の町名も立派な文化財

文化とは元来、不便・非合理・不均一なもの。だからこそ人の暮らしを包み、時に励みとなってくれる、とは、故・司馬遼太郎氏の言。

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鏡開き

 
朝十時から南座前で、鏡開きが復活。四条通の混雑を理由にこの数年は御挨拶だけになっていた。その前に客席で初日の集い、鏡開きの一時間後に開幕と云う慌ただしいスケデュールは恒例。前進座が京都で初芝居を開けるのは、35年目。
80周年

 客席から見る緞帳も新調されて清々しい。新装開場20周年を記念しての顔見世からの掛替え。
この中に緞帳は収まらないと思うけれど

 顔見世の翌月が前進座なので、初物のおこぼれに預かることが多い。
 改装前は顔見世で楽屋の畳替えをしていたから、気持ちのいい青畳で初芝居を迎えた。

鏡開き

 その昔は、若手は楽屋に寝泊まりして24時間の生活の場所が楽屋だったという。
未だ四階の楽屋から一階の舞台にサルバシゴが通っていた頃。
うちの話ではないが、酔って猿梯子を上って落ちた人がいるとか、その幽霊をみた人がいるとか・・・。
劇団に入った頃、その噂に戦々恐々としていたら、幸い私が入った年から楽屋泊まりは廃止された。

当時は何故か、楽屋の箒を取り換えるのが一月末で、公演が終わった時に古い箒を頂いて巡演の舞台掃除に再利用したのも暖かい思い出。
四階の楽屋番さんが大きな石油ストーヴの前に座っていて色々世話を焼いて下さった。お鏡をおろす頃になると、ストーヴに大鍋を乗せて善哉をふるまって下さった。
 楽屋泊まり時代の濃密な人間関係が残っていた時代でもあった。
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一段一段

夕方、京都に入って、南座の楽屋造りは元日吉例。
三週間の京都生活の始まり。
一段で0.1kcal減るそうです

 地下鉄の駅に降りると、階段の蹴上に紅白の文字。
30年の京都地下鉄の歴史と、今後の展望が記される。
左端に一段上るごとに消費されるカロリー数が書かれているのは、
階段利用者を誘致する工夫だろうか。
 
 駅階段の蹴上には、東京でも左側通行等を示す矢印があるのが一般だが、
踏面側には矢印がないので降りて来る人にはその意識がなく結局何の役にも立っていない事が多い。

 京都という地域柄、地下鉄掘削には文化財発掘調査が伴って苦慮の経営が続いていたが、近年光明が見えて来たと聞く。
 蹴上に記された決意表明は、着実な努力を思わせて心地よかった。
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壬辰初春

 キリスト紀元2012年。
 昭和天皇紀元では87年、大正で101年、明治145年と云うことになる。
皇紀、神武天皇即位紀元は、キリスト紀元に660を足せばよいから、2672年。
太陽暦改暦の際には、明治を廃して皇紀で統一すると一旦は発表されながら、
結局は元号存続が決まった。
このドタバタ改暦では、改暦前二日間だけの12月を消して
11月30,31日にするとして取消すなど、朝令暮改の連続だった。
タツノオトシゴ

純粋太陰暦イスラムのヒジュラ暦では、1433年。
江戸の暦は、月の運行で一か月を決めながら、太陽の動きで季節のズレを修正する太陰太陽暦。
農事には適した暦だった。
1872(明治5)12月3日を翌年元日と変えた明治改暦から、この国では純太陽暦が始まっている。
江戸時代でも改暦時は一年以上前から公布して混乱を押さえているのに、この時はたった20日前、カレンダーも売り出された後に飛込みで改暦した。一重に政府の財源不足の故。
本年は、旧暦でも閏年。三月の後、
新暦4月21日から5月20日が旧暦の閏三月となって13ヶ月。

太平洋戦争が終わるまで国の許可なくカレンダーを出すことは出来なかった。
夕陽を招き上げたという平相国清盛の伝説や、征服地の暦を変え、
七月を自分の名ジュリアスにちなんで改名したシーザーを持ち出すまでもなく、
暦や天体をも司りたがるのは権力者の性。

 西洋式啓蒙に努める新政府は、この時、歳徳、金神などの方位吉凶などの占いを記載することを禁じた。
但し、今盛んな仏滅、大安などの六曜は規制の対象でなかったともいう。
日曜の次に月曜が来るようなもので、しかも旧暦では月日と固定対応していたから、吉凶を云々する面白みはなかった。新暦では固定対応しないことで神秘性を持ち、戦後大流行を観たと云う。

60年で廻る十干十二支では、ほぼ真中、29番目の壬辰(じんしん・みずのえたつ)の歳。
子から亥に至る象形文字は、種子が芽吹いて育ち、枯れるまでを表すから、前半は歳の初めに相応しいが、巳で最盛期を迎えた後は、聊か縁起は良くない。それもまた人生なのだが。
辰は最盛期の直前、植物の形が整った状態。
何の根拠もないことながら、登り龍の姿に幸先の良い一年を託したいのも、また人の心。
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