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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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黙阿弥つぶやく

 死の十年前というから隠居名に改めた翌年頃だろうか、河竹黙阿弥翁は自分の寿命もあと十年、
と語っている。聞き伝えたのは、作者の家を継ぐことになった娘・糸女。

初春南座

 長男・市太郎には、実家の商家を継がせ、黙阿弥のDNA を受け継いだ糸女に作者の家の後を託した。
糸女は、『白波五人男』裁判を闘って黙阿弥の著作権を守り、坪内逍遥の教え子を養子に迎えて河竹の家を繋いだ。
ちなみに権威ある演劇辞典が、“河竹黙阿弥”と言うのは後世の勝手な呼び名で、河竹をつけて本人が名乗ったことはないと記述してしまったことが未だに幽霊のように生きている。が、作者の家を継いだ河竹登志夫先生が夙に反証をあげておられる。河竹黙阿弥と云う呼称は、誤りではないのである。念の為。

 あと十年、と言った黙阿弥は、それ以上生きていれば、また戦争に出くわす、今度は内戦ではなく外国との戦になると予言した。
事実、隣国・清(中国)を相手に明治政府初の対外戦争が始まったのは、没後一年半。
さらに十年後の日露戦争から20世紀前半を覆う戦争の時代が始まる。
 明治維新を“大きな御家騒動”と言い放った作者の眼は、新国家の行く末を確実に見通していた。
 
 死の前年、喜寿の賀を祝う。来年はそろそろ居なくなるから心しておくよう、改めて糸女に念を押している。狂言作者の霊感とでも言うべきだろうか。
           夜の櫓

翌1893年初春、開場時に不如意のことあって筆をとらないと宣言していた歌舞伎座に舞踊劇を書き下ろす。
五代菊五郎がその舞台を勤めている22日、黙阿弥は逝った。
 同じ頃、江戸時代から続く三座の一つ・中村座が炎上し歴史を終えた。
“江戸歌舞伎の大問屋”と呼ばれる作者は自分の人生にまで筆を執ったのかとさえ思わせる、ドラマティックな幕切れだった。

 黙阿弥が活躍する改暦狂想曲『明治おばけ暦』再演が南座で始まる。
作者・山本むつみ先生は、「また戦にならなきゃいいが」と黙阿弥につぶやかせている。

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またひとり星に・・・

 市川森一氏、70歳。新作ドラマが放映されたのが、つい十日ほど前だったから驚いた。
 円谷プロでの『快獣ブースカ』で、私たちの世代は氏に出会っている。
円谷英二生誕地の碑

『ウルトラセブン』での仕事を拾うと、淋しい話が多いのに気付く。「一人ぼっちの地球人」「盗まれたウルトラ・アイ」「V3から来た男」・・・。辺境の星で孤独に闘う人や、侵略の手先に使われて同朋からも裏切られる異星人たちが主人公だった。
 返還前の沖縄から来た金城哲夫氏や上原正三氏とは、また別の孤独や蟠りを抱えていたのだろうか。
ブースカもまた、人間の世界にたった一人の快獣だった。
 
 ウルトラを作った青春群像をフィクションを交えて描いた『私の愛したウルトラセブン』には、ベトナム戦争の脱走米兵にセブンの着ぐるみを着せポインターで逃がす場面が登場する。時代のディレンマを象徴的に伝えていた。

 後にメイン・ライターとして参加した『ウルトラマンA』(この作品名が『ウルトラA』から急遽変更、“ウルトラマン〇〇”という命名の先鞭をつけた為に、セブンを“ウルトラマンセブン”と誤って呼ぶ人々が現れることになる)では、両性具有を思わせる男女合体のウルトラマンと、異次元からの災厄とが闘う設定をした。
それは、人気テコ入れ策の為か路線変更されるが、最終回で、氏は善意に付け入ってくる侵略者と云う聊か遣り切れないエピソードを描く。それは、力技のように、地球を去る超人の「何度裏切られようと優しさを失わないで欲しい」というメッセージに転化される。

 大河ドラマ『黄金の日日』、『淋しいのはお前だけじゃない』『新・坊っちゃん』『面影橋・夢一輪』…特撮以外のドラマで数えきれない傑作を生みだしたことは言うまでもない。
 『淋しいのは―』は、今年舞台化され、舞台もまた良い出来だった。実はあまり期待していなかったのだが、外れでも兎も角見届けておかねば思うほど、私にとっては思い入れの強いドラマだった。

 須賀川・松明通りに第一シリーズとゴジラシリーズのキャラクターが並ぶ
『ウルトラセブン』に憧れた少年が、宇宙に足跡を残した年、ウルトラの送り手の一人が星になってしまった。
ウルトラマンの故郷・須賀川で千穐樂。今朝は雪。


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私、オイスターの味方です

     
     松島水族館の牡蠣

 以前から気になっていたオイスター・バーの扉を意を決して叩いてみた。
カウンター八席のみというコンパクトな店内だが、幸い座れた。あとで聞くと此処、火曜日は定休なのだが、光のページェントで賑わう十二月は特別に開けているとのこと。二重の僥倖だった。
               
私が生まれ育った家では、牡蠣と云えばカキフライ。味と云い、見た目と云い子供心に気味悪く食べられなかった。広島で自炊を始めてから、スーパーに並んだむき身のパックを自然に手に取った。たっぷりの葱に赤だしで一煮立ちさせたのが最上の料理といまだに思っている。
牡蠣を使って発酵させたオイスタービールや、生牡蠣を丸呑みするカクテル、オイスターショットもある専門店。此
処で殻つき牡蠣を一つ食べる毎に五〇円が、日本オイスター協会を通じて牡蠣産業に募金される。

     牡蠣のオブジェ

 震災の翌日、スーパーで岩手の蛸を見て、当分あちらの魚介は食べられなくなるのだなと思った。前回の打撃から立ち直ったところで壊滅的な被害、三陸牡蠣も深刻、茫然自失の様子が報道された。私は経歴上、広島の牡蠣派なのだが、いずれ三陸牡蠣の復興プロジェクトが立ちあがったら微力を添えようと思ったが、思ったよりずっと早くそれが立ちあがった時、早速三陸牡蠣応援プロジェクトに応募した。使われる目的がはっきりしているのと、物を買った代金というスタンスが心地よい。
三陸牡蠣が収獲出来た時に産品が届く。実は、既に今年も小さなものは収獲されているのだが、数年後牡蠣船が安定した頃に舌鼓を打ちたい。
 
 無論沢山の御苦労を抱えながらだろうけれど、他の漁業も力強い歩を進めておられる。長年お世話になっている魚好きとしては、出来ることを見付けて行きたい。
 


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大空へのラヴ・レター

            タイトルは“昨日・今日・明日”

 仙台での公演は、定禅寺通りの二会館か泉区の会館が常ながら、当初、設備回復の目処が着かなかったため、青葉城址下の国際センターになった。他の公演地でも、郡山の小屋が使えず須賀川になったり、馴染の小屋が使えない状況があり、幾つかの公演地は諦めざるを得なかった。
仙台には宮古の方々においで頂き、盛岡では釜石の方々にご覧頂き、各地で避難されている方々にお出で頂く事も出来た。
 
会館の向かいが博物館でその脇を登っていくと仙台城の址。
城の堀にあたる五色沼は明治期にフィギュア・スケートが本邦に伝えられた地とされる。フィギュア・スケート発祥の像
光のページェント会場に屋外スケートリンクが営業されていたのも、そんな文化的背景によるものか。

途中、石垣が崩れて近道は車輛不通だが、人力では通行可。
建物こそないが、本丸の石垣は威風あたりを払う。
石垣に緩みが見られた為六年かけて行われた発掘補修では、石垣博物館ともいうべき技術の集積と豊かな遺物が明らかになった。無料の仙台城見聞館はコンパクトながら充実。
青葉城と云う名は会津の鶴ヶ城同様に喧伝されて通りが良いが、仙台城とか会津若松城と云う方が正式名称で、青葉城や鶴ヶ城の呼び名は、白鷺城、鯉城、烏城、金鯱城と云った類の別名にあたるようだ。
この石垣の上に著名な伊達正宗騎馬像が建つ。その斜め後ろには日清戦争後に立てられた忠魂碑があるが、三月の地震でその第城を飾る金鵄は落下していた。金鵄は軍人に贈られた金鵄勲章の金鵄、神武天皇の闘いを助けた金のトビである。
               正宗騎馬像

正宗像は戦時中供出されたが、原型が残っていることが判って60年代に再建された。元の像は馬の部分当りだけが溶かされたが正宗の上半身は宮古に打ち捨てられているのが発見され麓の博物館の庭に胸像として飾られている。初代正宗

この庭には魯迅ゆかりのモニュメントも多数。盧溝橋事件30年にあたっての日中不再戦の記念植樹の標が眼を射る。

博物館正面に建つモニュメントは、兵隊さんかと思ったら郵便配達夫。よじ登り、走り、天に向かって手紙を差しだす配達夫は何を示しているのだろう。
アーケードのサンタは、商家の守り神、仙台四郎さん

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光のページェント四半世紀

 街を覆うイルミネーションの元祖は1981年の札幌。
仙台は五年遅れて二番目だった。
入座間もなく『俊寛』で12月の東北を廻った時、定禅寺通りに面したホテルの窓から、並木の枝々の豆球に宿る光の帯を見て“凄いことをする”と魂消た。当時、東京にもあんなものはなかったのだ。
                   公園のシンボル・ツリーには多色が使われる

 今年は設備が流された事や、自粛論もある中、広島を含む他地域からの援助もあり、実施におさまったという。
 搬入メンバーのバスは、夕刻定禅寺通りに差し掛かった。22時までだから公演当日にここを通りかかる頃には既に消えているかもしれない。日曜のこととて、広い中央分離帯は家族連れで大賑わい。

 昔から白一色のシンプルさだが、分厚い欅並木を覆う光の波は圧巻。一夜に三回位行われる“スターライト・ウィンク“は、一旦消えた灯りが一斉に点くイベント。目撃することは出来ず、想像がつかないのだが感動的だと云う。

定禅寺通りの両端の公演では、カラフルな光も。
ヒロシマの折り鶴は、何時もの会館の隣にある西公園にあった。西公園の折り鶴像


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アリガトゴザイマス

 広島市民劇場の定宿、広島サンルートホテルは、川と平和大通りを挟んだ斜向かいに平和公園を望む立地。
15階の朝食会場からは、平和公園やドームが見渡せる。ここは通学路ではなかったけれど、 橋を渡る自転車を眺めながら朝餉の時間はふと往事にタイム・スリップしたよう。
               
朝食会場の窓から
 
 帰りのエレベーターに、西欧人の御夫婦が乗り込んできた。利用階数を聞いてボタンを押すと、ご婦人が「アリガトゴザイマス」という。降り際には、御夫君が半分口の中で「アリガトゴザイマス」と声をかけて行った。
 その遠慮がちな言い方で心づいたが、英語なら“SURE”とか何とか返事をするところ。いや日本語にだって「どういたしまして」という返事のしようがある。
返事をしないのは、一種傲慢な態度に見えても仕方がない。
感謝の言葉を無視していたわけではなく、お礼を言われるほどのことでは、という気持ちが背中に謝意を聞くばかりの態度になってしまった。自分の言葉が通じなかったのか、言い方が悪かったのかと余計な心配をかけることだったかもしれない。悪気はなくとも、ちゃんと表現しないと通じない。
一事が万事。これからは少し心せねば。


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おとぎの国―ひろしまドリミネーション

夕方六時前の広島はとっぷり暮れていた。
タクシーが平和大通りに差し掛かると、光るモニュメント。
南瓜の馬車
見慣れぬ風景に驚いたが、もう10年以上前からと云う。この季節に来ないから知らずにいただけだった。
        ピノキオじゃないし?

 シンデレラの靴や南瓜の馬車、銀河鉄道…鯨に呑まれそうな帆船は何の物語か、おとぎの国がコンセプトというオブジェの廻りを老若男女が散策する様はホッコリと暖かい。
 広島らしく真っ赤な楓が光るコーナーは、名代のもみじ饅頭の老舗提供。
太陽光発電機が備えられ、LEDの灯りなのは、時代の流れ。

 此処百メートル道路は平和大通りの別名の如く、原爆慰霊碑がそこかしこに建つ道だから、この光の祭典には実は少し抵抗があった。「年々ヒドくなる」と評した地元居住者の言葉選びにも無意識にその辺りがあるのだろうし、中電が儲けていると云うのも事実なのだろうが、これはこれで必要なのだろうと思った。

 白神社の向かい辺りに白い人型が亡霊のように立っている。
脇に折り鶴のモニュメントがあり、今年の災害を含めた鎮魂のコーナー。
この人型も感じ方で意見が分かれそうで、私には“微妙”だったが、このコーナーを忘れない処はほっとさせる。
 
 広島には、夏の精霊流しが根付いている。
なぜ人は光に癒しと哀しみを感じるのか。イルミネーションは星空を写したのがその起源とか。古来生命は、灯火に例えられ、星もまた、一つひとつの命。
 灯火に、永遠とはかない命の両方を見るのは、星空を見上げた古代以来の感性なのかもしれない。


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微妙

 スーパーに行ったら、エイひれを売っていた。
エイひれの干物が泳いでいないことは知っていたが、生のエイひれを見るのは初めて。
本体に着いているのは別にして。
味噌汁に放り込んでみたら、ゼラチン系で手間無く軟骨まで
食べられた。醤油で煮つけたり揚げ物にする地域は意外に多いらしい。
                     エイの稚魚


 いわきの水族館・アクアマリン福島には、行く機会がないまま、今日を迎えている。
津波とその後の停電で大半の魚が命を落とし、生き残った海獣たちは各地に疎開した。
七月の再オープン後、避難獣たちも里帰りしつつある。

 釣り堀で釣った魚を食べられるというイベントを紹介した情報番組では、「微妙ですね」というコメンテーターの言葉も。確かにちょっと違和を感じた。もっともこれは、新しいイベントではなく、子供向けの施設“マリンえっぐ”で昨年から続いているもの。


各地水族館で食堂施設を利用したことはないが、焼き魚定食や刺身定食などはメニューにないのではなかろうか。
が、これが最も身近な海や魚族と人とのかかわり。
私も、水族館で生態や姿を楽しみながらも「旨そうだな」とどこかで思っていたりする。牛馬や豚鶏に目がない人でも、生きた獣をそういう目で見る人は余りいないだろうが、魚は丸ごと焼いたり活き造りにしたりもする所為か、割烹店の生簀にも泳いでいるからか。

子供たちがトラウマになっては困るが、活き造りのメニューがあってもいい位に私は思う。


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羽黒山

老杉

庄内は、陸奥、上方、江戸の三つの文化圏が渦を巻く地点だという。
司馬遼太郎氏は歴史紀行『街道をゆく』を始めるにあたって、真っ先に庄内が浮かんだと云う。それほど想いの深い土地なのに、いや、想いの深い土地だからこそか、とうとう庄内―鶴岡、酒田―が取り上げられることはなかった。
中盤を過ぎた頃、さて次の目的地はと聞かれて、一旦庄内を指定したものの、しばらくして何かに懼れたように取り消してその北の秋田に行き先を変更している。拘りの理由は、著作の何処かに記されているのかもしれないが、管見の範囲ではない。 

明治維新時、官軍と闘った奥羽列藩同盟の中でも、最も激しく戦ったのが会津と庄内。そんなこととも関係があるのかどうか。会津若松は、『街道―』以前にも訪れておられるが、庄内に足を踏み入れることはなかったのではなかったろうか。
 羽黒山大鳥居

 新潟から羽越銭に乗る。直流交流切り替えのアナウンスが流れて間もなく左の車窓には奇岩が断続し、さながら小・松島。尤も、後で調べたら途中村上市辺りの笹川流れと呼ぶ景観を、幕末の頼三樹三郎は松島に勝ると賞美している。波に洗われる奇岩

電車は二時間ほどで鶴岡の駅。本体より一足早く着いてこの日は仕事。翌日が一日空いた。

 森敦の『月山』でその名を覚えた月山を前世、湯殿山を来世として、最も下界に近い羽黒山は現世利益を司る。
雪に覆われた月山は多分この季節にはもう登れないのだろうが、何れにせよバスで二時間登るのに二時間、行って帰るだけで一日仕事。今回は羽黒山に向かう。
午後から予報されていた雨は、朝から降りレンタサイクルは断念、小一時間ほどバスで走って、山麓に着いたのは八時半だった。軒並みつるされる

 随身門を潜ると一旦下る石段の両脇は、特別天然記念物の杉林。赤い橋と小滝を越えて少し行くと爺杉と呼ばれる樹齢千年の杉。他600本ほどの杉たちは未だ300~600歳の鼻たれ小僧。
爺杉の向こうに著名な五重塔が覗く。現在のは室町頃の再建だが、創建は平将門と伝えられる。国宝指定の五重塔十一基のひとつ。雪の写真がお馴染みの塔も今日は雨の中。
          爺杉と五重塔

 五重塔の向こうから上がっていく急な石段には“一の坂”の表示があり前途は長そうだ。緑のグラデーションをなす石と落ち葉の色を雨が深いものにする。
               三山合同の社も雪備え

 彼方此方寄り道しながら三の坂まで上って三山神社のある頂に立ったのは、一時間半後だった。
            芭蕉も小蓑を欲しげなり

 別の道から降りようかと思ったが、工事中のようなので同じ道を下る。幅の狭い石段は降りるには骨だが、半分駆け降りたので随身門に戻ったのは二十分のちだった。
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