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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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雲黒斎


 家元死去で戒名が公表されたが、雲黒斎の名を言い出した頃にはまだ戒名でなく、隠居名としてだったと思う。ボケて我儘を言ったり、「浦賀の黒船は帰りましたか」なんて言う一種超越した晩年像。

自分を追い詰めて命を絶ってしまった桂枝雀師匠は、師匠の噺を聞きたい人だけを集めて(独演会は元々そういう性質のものだが)、何も喋らずに坐っていて打てば響くようにお互いが満足すると云う境地になりたい、と語ったことがある。それを漏れ聞いた家元は、そういう関係は嘘だと思う、と云った。言わば教祖と信者のみの集まり。関係ない人がやって来て「何これ?」と言った途端に崩れてしまうと。

 が、家元自身、国立演芸場時代の『ひとり会』(70年代から何期か断続的に行われた独演会)で、この会に来るお客は一種精神病患者の集まりみたいで、と談志信者の会になっている側面を認めている。
自分の世界を追求することは、アンチをふるい落としていく作業でもある。それは世界を狭めることかもしれない。

 一方、患者たちは、遅れてきたり来なかったり漫談だけで終わってしまったり、そんなリスクも楽しみつつ名人芸にぶち当たった歓び、絶品の一席に巡り合う幸せの為にバンタビ通っていた。TVでの家元を見てさかしげに何か言う手合いなど冗談ではない。
                   本の見返しの左上に漉きムラがあったら、サインをした後で、「これ、消してやろうか」と云って返事も待たずにその上にひと言書き添えた。ちなみに本の題名は『談志が死んだ』

 志ん朝師匠も、名人圓朝の“無舌居士”の号にちなんで、“何も言わないで座っているとお客さんが肯く”というのが晩年の理想と語ったことがある。大半洒落なのだろうが、舌一枚で毎回が客席との真剣勝負の生業。誰しもそんなことを思う時があるのかもしれない。

 圓生師匠が名人について語った言葉を想い出している。
“皆が参る立派な社殿の奥にある細道を上っていくと山の天辺に小さな古い祠がある。それが名人芸”という趣旨の準え。それを喜ぶのは、やはり通とかマニアとか云われる人々だろう。

 貴重音源の夢の寄席で席亭を勤めて寄席への、様々な話芸への愛を語った家元。
国立公演の帰りに、偶々一度乗り合わせた地下鉄車両の端で吊革を握った家元の想いに耽る姿が浮かぶ。


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THAT'S A PLENTY

 遂に来た、遠からず来るとは思っていた日が。

国立演芸場版「ひとり会」(私は間に合わなかった紀伊国屋ホールでの『ひとり会』の時代がある)や『落語のピン』等で達者な頃の生の高座に触れることが出来たのは幸せだった。そして紀伊國屋・志の輔独演会での中入り前に演じた『芝浜』の凄さ。もう生でああいう噺は聞けないことは残念ながら判っていた。
 
 この四月、日曜の早朝に偶々NHKを点けたら寄席の新番組が始まった。トップ・バッターの志らく師匠が「こんな時間に落語聞く奴がいるんですかね」と云うように、朝五時半からで再放送も無しというのは一寸異常な設定。当初十回の席亭を勤めた圓歌師匠は家元のピンチ・ヒッターだった由。
番組の締めのゲスト対談は歌丸師匠だったが、何やら追悼の趣きがあったし、少し後、文枝襲名会見で家元に触れた時の三枝師匠の涙からも、回復の見込みのないことは想像できた。

 人生の終わり方については、家元の高座で随分昔から話題にしていた。
「病気か、事故死か」と言ったら「お前(の場合)は、他殺がある」と言われたとか
芸を含めた老境の創造に続いて、戒名や葬儀方法は決めてあることを、冗談とも本気とも知れず、家元信者は何度も耳にしてきた。現実に決定された“立川雲黒斎家元勝手居士”という洒落ノメシタ戒名など諳んじているし、『全て満足』と云う名のデキシーに送られて逝くのだというのも周知のこと。ずっと先の話だし、現実にはそうはいかないだろうと思っていたことが現のことになった。
 
 声帯摘出を拒否しての喉頭がん闘病、先月27日に急変して意識のない三週間の末と云う。
遺された音源、映像は豊富にあり、生の高座に出会えた幸福者は生の息遣いを補いながらそれを聞くこともできる。この一年ほどの状況とさして変わりはしない。

 が、秋空にすい込まれそうな程、ぽっかりと穴のあいたような頼りなさは何だろう。



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赤瓦

鶴ヶ城
 初雪の秋田を終演後に出て、会津若松に着いたのは23時前。
私は今回、搬入のみ。搬出メンバーは日付が変わる頃着いた筈。
  秋田では雪囲い作業が急がれていた  雪
翌朝八時過ぎに駅前の宿を歩きだして、城の開く八時半過ぎに城に入った。
          門番

維新時、官軍との闘いの矢面に立った悲劇の城の入口を守るのは、穏やかな鎧武者。公務員さんだろうか、鬘や兜こそつけないが、全身そつなく鎧っている。

明日公演する会津風雅堂は、この程近く。とは言え、公演当日に城中を訪ねる時間にはなかなか恵まれない。
12時に宿を出発して喜多方昼仕込の今日は午前中が自分の時間。
会津戦争のエピソードに親しんでいる人間としては、「鶴ヶ城って云うんだ?」という劇団員に、何を言っているのかと思ったが、若松嬢、会津若松城とも呼ばれるらしい。

名高い少年部隊・白虎隊が自刃したのは、飯盛山から城方面の煙を見て落城と思いこんでのことだったが、この時、城は焼けなかった。七年後、明治新政府によってこぼたれたのだった。
篭城線の乏しい糧秣を保つため婦女子は城に入らず自決したといった悲惨な話の多い中、会津の長男丈が演奏できる祭囃子を演奏しつつ“官軍”包囲陣の中を悠々と城に入った一隊のエピソードは痛快。
その後、下北半島斗南に移住させられ辛酸を舐める経緯は、山田太一の大河ドラマ『獅子の時代』でも描かれ、私には馴染深い。“この間の戦争“が、太平洋戦争ではなく、戊辰戦争を指したと言われるのも肯ける。千家再興に力を寄せた蒲生氏郷ゆかりの茶室・鱗閣

天守閣は市民の願いをうけて91年振りに再建された。その時の記録フィルムが城内で放映されていた。
大きなサッシで覆われた天守は、窓を開けずに下界を展望出来る。サッシを開けてバルコニー?に出ると寒風が吹き付ける。
 三年前、城の下までは来てみたのだが、その時とは姿が替っている。この三月に以前の黒瓦から赤瓦に吹替えが完了したばかり。黒瓦時代
凍結による罅割れに強い釉薬を使った赤瓦吹きは、この城本来の姿。
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面影橋

 三日間の荒川通い。
当初の予定では上旬に初日を迎える筈。その日程で前進座劇場を押さえていたのが、東北震災の影響などで公演地が減少、十日ほど初日が遅くなった。
 中旬の前進座劇場は既に貸し出されていたので、久し振りに外部の小屋での舞台稽古。
        会館最寄駅

 サンパール荒川は、都電荒区役所前が最寄駅。
都内唯一の路面電車荒川線が開業したのは、明治44年、この八月一日が100年目だった。
早稲田から三ノ輪橋まで、駅数は丁度三十、所要時間は小一時間。荒川区役所前は三ノ輪橋から二つ目。
お岩様の墓のある  
界隈に行った時などに少しは乗っているが普段あまり縁がない。
この機に早稲田まで乗ってみた。
 
 早稲田の一つ手前が面影橋。
TVドラマが珠玉の作品を生み出していた頃、“シリーズ街”という企画の二番手に登場したのが、市川森一氏の『面影橋』全四回だった。
 別の大学に通いながら同じ下宿に住み、同じ喫茶店に屯した四人は巧なり名遂げ掛った30年後に面影橋に集うことになる。一人は愛人を殺して自首する道すがら。友情と云えばきれいすぎる、本音と建前のせめぎ合う踏み絵が待っている。 主人公は地位を犠牲にして想い出を守った結果になる。
市川作品らしく、嘗てのマドンナとその娘が噺に華を添える。
   100周年の都電・新型車両

 リリシズムあふれる物語に、都電がピタリと位置を得ていた。

荒川も昔の東京の感じが残っている。
会館は普通の芝居なら使いやすい小屋だと思うが、歌舞伎十八番の大拵えだと廊下が狭く感じる。
いったい誰が、こんな突拍子もない鬘や衣裳を発明したのか。廊下で行き違えないのは、これから公演地に行っても日常茶飯だろう。

 ともあれ、舞台稽古は無事終了。
大阪国立文楽劇場、名古屋中日劇場を含めて、明年三月末まで、『毛抜』『水沢の一夜』は、秋田から始まる。
東北は雪の予報。

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