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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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ペンギンの城

 ペンギンは南半球に住む鳥だが、北半球で一番ペンギンが多いのは日本だと言われている。
コガタペンギン

1998年に39年の歴史を閉じた長崎水族館は、世界最長寿飼育や初の繁殖成功など、“長崎方式”と世界に紹介されるペンギンの飼育の実績を持っていた。三年後、長崎ペンギン水族館としてリニューアル。
旧水族館で子供たちが乗って遊んだ海ガメ
 世界に生息するペンギンは18種。分類上の意見によって16種2亜種ともよばれるが、18タイプに細分されることは共通している。ここには、中8タイプのペンギンが住んでいる。
 長崎市東部、バス通りからビオトープのプロムナードを過ぎると、二階建ての水族館は湾に臨んでいる。
その名の通り、ペンギンが主役だが、メコンオオナマズやカブトガニ、等の魚類、甲殻類も一角に同居。

コガタペンギンがいる園は多くはない。コガタペンギンエリアの隣は、ペンギングッズの部屋。これは今年生誕100年の方のコレクションの一部。

亜南極ゾーン
水族館の前の浜でフンボルトペンギンが泳ぐ“ふれあいビーチ”は初の試み。えさやり時間は見落としたが、一斉に海から上がり、また一斉に泳ぎに戻る集団行動は、飼育舎内では観察しにくい生態。かゆくなるのも集団?


 ビオトープには稲が稔り、黒揚羽、塩辛蜻蛉が飛ぶ。チョウトンボも繁殖しているらしいが、時期が過ぎたのか姿は見えない。草むらでガサリと音がすると、そこには慌てて走る蟹の姿。
 湾ではシーカヤックの体験も。一般の水族館とは違った魅力をまだまだ発揮しそうな十歳の水族館。


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手前味噌

(芸界通信 印斗羅熱湯10)

 徳川の世になってから暦を改めたのが、平安以来800年振り、
その後天保まで合わせて四度の改暦があった。

 皆お月さまの動きを元にして閏月で帳尻を合わせる太陰太陽暦だ。
太陰はお月さま、太陽はお日さまのこと。

 暦の仕組みそのものを変えちまう御改暦はそうそうあるもんじゃねえが、
年号って奴は割とよく変った。
悪いことがあった時のマン直し、験直しにも替えたもんだ。
もっともわっちら下々も、そんなことで世の中変りゃしねえことは先刻承知、
行人坂の大火や風水害が続いて 
明和九年をを安永元年と改めた時も、早速落首だ

 年号は 安く永しと替れども 諸色高値 今に明和九

 安永と年号を変えたって、明和九年と中身は一緒、
迷惑(明和九)な世の中はかわりゃしねえってわけだ。

徳川様の世が終わって、明らかに治まるって目出度い御代になったわけだが、

 上からは明治だなどと云うけれど 治まるめえ(明)と 下からは読む

上方の贅六どもがやってきて 東京などと江戸をなしけり

上手えことを言うもんだが、
まァこんなことでも考えて憂さ晴らすしかなかったってこった。

 一番治まらなかったのはお侍かもしれねえ。
手に職がねえんだから。
先祖伝来の鎧兜や刀、まだあればがね、
それも二束三文で売ったあとは、にわか仕立ての武士の商法。

 汁粉屋や鰻屋やってもお殿様気分が抜けなかったりして失敗する有様を
圓朝師匠が噺に仕立ててるが、似たようなことはいっぱいあったんだろうねぇ。
 
 芝居だって随分変わった。
幕切れまで演るのが当たり前だと思ってるだろうが、初日はそうじゃあなかった。
幕間の時間も決まっちゃあいない。用意が出来たら幕を開けるんだからぶっつけの初日は当然伸びる。
途中までだろうが、日が暮れになりゃ「今日はこれまで」の切口上ってわけだ。

 番付に載ってても千穐楽までとうとう大詰め幕が出ないなんてこともあった。

 それを、初日の前に舞台稽古をして、
幕間の時間もきっちり決めて、初日から全幕上演、
木戸銭でなく切符を売り出して七日前から予め買えるようにする、
芝居茶屋や出方を無くす、台詞をつける為の黒衣は無くす。
明治が終わるころには江戸の芝居見物とはすっかり変っちまった。

 色々仕組みが替ると便利なこともあるが、
これまでのご見物が来なくなったりもする。
が、世の中止まっちゃいられないんだからまぁ仕方ないやね。
 阿国から元禄、宝暦、文化文政と
こっちじゃ何でも観られるが
芝居もどんどん変わってきたんだ。


 ああ、随分と喋っちまった。
まァお役に立てりゃあ何よりだ。

 わっちはそっちに居る頃からいろいろと書きとめてたから、
まぁ確かなことを話せたつもりだがね。
おっとこいつぁちょいと手前味噌だったかな。



 三代中村仲蔵(『明治おばけ暦』劇中劇『散切りお富』多左衛門 役)
篇:松涛喜八郎
※三代中村仲蔵自伝『手前味噌』他歌舞伎史の著作を参照、冥界の三代仲蔵が語る形をとらせていただきました。また『芸界通信 無線電話』という先行例に習って、芸界通信を名乗らせていただきました。

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有明のほとり

雲仙・平成新山
 二両編成の島原鉄道で海沿いの鉄路を小一時間。 
島原駅の改札で出迎えて下さった島原市民劇場の皆様から、
今朝、前例会をクリアしたとの嬉しいお報せ。
前例会クリアとは、前回の例会(公演)の会員数を越えたと云う事。
数十名の退会者があってのクリアだから担当サークルの方々のご活動に頭が下がる。



 初めて伺ったのは、『解脱衣楓累』中四国九州二月半の旅。
二月半ばに高知で初日を開けて、島原は三月の末日だった。
 移動日、貸切バスで乗り込み、
アーケードにある旅館で一服ののち体育館に赴いて、
主催の市民劇場の皆様とバレーボール大会だった。
 搬入メンバーと呼ばれる若手だけだったと思うが、
照明さんらスタッフも喜んで参加して下さった。

 雲仙が火を噴いたのは、二年後だった。
一旦は収束するかと思われたが、その翌年再噴火、拡大していった。
五月に最初の土石流。
市民劇場は例会を見送らざるを得なかった。
二例会の休みを経て、俳優座『季節はずれの長屋の花見』で例会再開。
「芝居を観られるって素晴らしい」と思ったと言われる言葉は重い。

一番大変な時期を私は見ていないが、一時、島原入りの前後、噴火のため島原鉄道が運休との情報が入ってバスを手配するなどした時期があった。

 けさ入会下さったのは双子の方。
前例会マイナス1名から一気にプラス1名に劇的に転じたという。
「どっかに三つ子がいないかしら」

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ダイコの権ちゃん

(戯文 芸界通信 開化印斗羅熱湯9)

 天覧芝居の『勧進帳』弁慶を勤めた九代目團十郎というのは、『散切りお富』の坊主与三郎、七代権之助。
もともと『勧進帳』をつくった七代目團十郎の五男が、六代目権之助の養子になって、河原崎長十郎(三代)。
将軍家に“長”の字のつく御子が御誕生になったんで、長の字を遠慮して権十郎(初代)と変えた。

六代目は黙阿弥の師匠になかなか新作を書かせてくれなかった座元河原崎権之助だ。
ご一新の年に強盗が入って非業の死を遂げちまった。
義理の親父さんの断末魔を押入れに隠れて聞いていたのは有名な話だから、
後に黙阿弥師匠の『幡随長兵衛』を演った時、その写しだってんで評判になった。
 親父さんが亡くなった翌年に権之助を継いだ。
 
『切られ与三郎』を初演した八代目團十郎が上方で切腹しちまったのを初め、兄貴たちが早く死んでしまったんで、
九代目を継いだのは『散切りお富』の翌々年。
 『ザンギリ―』の頃は、まだ権之助、“大根(だいこ)の権ちゃん”で通ってた。
もっとも“大根と言われるまでの難しさ“と云う位で、おいそれと大根になれるわけじゃあない。
古いことで忘れちまったが、『散切り―』の本外題に『枡毬栗』と枡の字が入ってるからにはこの頃にはもう成田屋を継ぐのが本決まりになってたんだろうね。三升は、市川宗家の紋処だ。

 黙阿弥師匠の『三人吉三』の初演は12年前だが、和尚吉三は四代小團次、旧幕時代の黙阿弥師匠のパァトナァだ。
お坊とお嬢は『散切りお富』と同じ、團十郎と半四郎の組み合わせだった。
 お富の半四郎は、四半世紀ぶりにお父っつぁんの名跡を襲って八代目になった翌年だ。

 お富に騙されて強請られる但馬屋清七は三代翫雀。
移転前の守田座に上方から来たのが前の年。初代鴈治郎のお父っつぁんだが、
いろいろと事情があって未だこの頃は息子と再会していなかった。
この翫雀は九年後に40で、半四郎は十年後に50余りで逝っちまう。
わっちより十も二十も若かったのにこっちが残っちまった。
清七の妻、お仲は半四郎二役だ。

観音久次の左團次(初代)は、四代小團次の養子。
養父を失って後ろ盾のない左團次を、小團次のぱぁとなぁだった黙阿弥の師匠が引き受けた。
そいつが実を結んで、『慶安太平記』の丸橋忠弥が当って人気が出たのが二年前だ。
番頭敵の藤八を勤めた二代鶴蔵はうちの弟子。確か後の天覧芝居の時にも出た筈だ。
で、但馬屋の多左衛門がわっちと、
『散切りお富』の顔触れはまぁ、そんなところだったね。



 三代中村仲蔵(『明治おばけ暦』劇中劇『散切りお富』多左衛門 役)
篇:松涛喜八郎
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街路の稔り

秋の稔り

 日差しは強いがすっかり秋の空気。西海岸をおもい出す。

 鹿児島でも福岡でも街路樹の下は銀杏の山。
佐賀ではまだ緑色の実が樹上に生っている。

東京の都木はイチョウ。ガードレールもイチョウの葉を象っている。
街路樹も多いと思うのだが、こういう光景を見た記憶がない。
雄木が殆どなのか、すぐ掃除されて偶々廻り会わないだけなのか。

 売られている銀杏は栽培種らしいが、
街路樹からの稔りの山は、どう処理されているのだろうか。

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もとのモクアミ

(戯文 芸界通信 印斗羅熱湯8)
 黙阿弥の師匠は本名吉村芳三郎、“よしよし”で通ってた。
江戸日本橋の商家の生まれだ。長男が早く死んだから次男の師匠が跡取りなんだが、
道楽が過ぎて勘当されちまった。
19の歳には五代目南北に弟子入りして芝居の世界に入ったんだから、
勘当されて得たり叶ったりだったんじゃねえかねえ。

 座元(興行主)に親切、ご見物(観客)に親切、役者(俳優)に親切、の
三親切を心掛けて“江戸歌舞伎の大問屋”とまで言われる作者になった。

 時代、世話、所作事、なんでも御座れだが、白浪(泥棒)作者と呼ばれた位、白浪物が得意だった。
徳川の頃には『三人吉三廓初買』『十六夜清心』『白浪五人男』『鋳掛松』なんぞがある。
もっとも今は人気狂言でも、『三人吉三』は当時あまり(観客が)入らなかったし、
『十六夜清心』も『鋳掛松』もお上から上演中止をくらっちまった。
気楽に見えてもこの世界も苦労が絶えないのさ。
 

 明治と世が替って、演劇改良の先生方からは古いの下劣だのと言われたが、筆は衰えちゃいねえ。
『河内山』『髪結新三』『幡随長兵衛』と、今でも人気の狂言をものしてる。
 前言った通り、明治の14年、三代如皐の逝った年に、“黙阿弥”になった。隠居名だ。
 引退披露には勘弥の旦那が口上を述べた。
狂言作者の引退披露は他に例がねえんじゃねえかな。

出て来る人気役者がみんな泥棒でみんな改心する『嶋千鳥(しまちどり)』が引退披露の狂言だったが、
実のところ、師匠なしに芝居の世界はまわりゃしない。


『魚屋宗五郎』『加賀鳶』『筆幸』『四千両』『高時』
ざっと揚げだだけでも黙阿弥になってからの傑作が目白押しだ。

 立ち消えになったが、沙翁の『ハムレット』を翻案するなんて話もあった。

 喜寿も過ぎた明治26年正月に頼まれて書いた所作事
『奴凧廓春風』が大評判で上演最中にそっちの世を去った。
結局亡くなる月まで筆は折らなかった。天性の狂言作者だ。

 大劇場での年間上演作品一位の座を
長谷川伸に奪われたのは元号が二度も変わった
昭和の七年。
没後40年も経ってた。いや、それも一時のこと、今も第一位じゃねぇのかな。
 


 三代中村仲蔵(『明治おばけ暦』劇中劇『散切りお富』多左衛門 役)
篇:松涛喜八郎
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大隈伯のテラス

記念館設計は今井兼次早大名誉教授
 『解脱衣楓累』という鶴屋南北の作品で、初めて九演連(九州演劇鑑賞団体連絡会議)を廻らせて頂いた折に来ているあら、20数年振りの再訪。
 
 125年寿命節を唱え、野口英世博士からは肯定的な発言を貰ってご機嫌だったと云う大隈伯、
80の声を聞いてから手放すことのなかった葉巻を止めた。亡くなったのはその翌年。
 その生誕125年を期して建立された記念館。
ガウディ、シュタイナーの建築理念に沿ったという設計も凝ったもの。大隈重信の肉体と精神、業績を表している。
 具象的なところでは入口は公の大きな口を表し、向かって左側に飽いた大きな穴は何と暴漢の爆裂弾で吹き飛ばされた右足を表すと云う。爆裂弾を投げつけられたのは50過ぎた頃、不平等条約改正案への反発が招いたことだったが、自決した犯人を「命がけで仁を行った」と称え夫人と共に没後を弔った。

 早稲田の元となる東京専門学校の設立をはじめとする文化的功績、二度にわたる組閣をはじめとする政治的業績、現代からは肯定し辛いことも含めて、その足跡は大きい。
 生誕の家と立像

 地方自治を記念した全都道府県版500円硬貨が三分の一ほど出た中で
、個人の肖像を前面に出しているのは高知県の龍馬と佐賀県の大隈重信のみ。金銀銅三貨と藩札に加え、両・朱・分の四進法で国内外に混乱を招いていた貨幣界に円を齎したのが氏であると聞いてみれば、貨幣に刻まれるには最もふさわしい人である。
 残念なことに記念館にある略年表には明治五年の項目がない。
『大隈昔日録譚』に自ら顛末を語る通り、日本に西暦をもたらした張本人は氏であるのに。

記念館のテラス
 記念館の右側部分はテラス状。
早稲田演劇博物館のエントランスのように、ここで野外劇が出来そう。これについての説明はないが氏の舞台への趣味を表現しているのだろうか。
自宅に團菊左を招いて紋付で『勧進帳』を上演させている。高名な天覧芝居の半年前の話。五代菊五郎と初代左團次が贔屓だった。


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三人與三強請法 さんにんよそう・ゆすりのてほどき

玄冶店は医師・岡本玄冶の持ち家

 一度目は『縮屋新助』こいつはお富も与三郎も出ちゃあこねぇ。
『切られ与三』の後日談ってことで、赤間源左衛門たちが絡んで縮屋新助の話が始まるわけだが、
二度目と三度目は、趣向を替えたお富与三郎の話だ。
二度目が幕末の『切られお富』(1864)。傷だらけになるのを女の方にした書替え、
蝙蝠安と一緒になったお富が強請(ゆすり)に乗り込む。
そして三番目が『散切りお富』(月宴升毬栗)ってわけだ。

玄冶店

 前の年に断髪勝手のお達しが出たんで散切りは流行り言葉だ。
[散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする、丁髷頭を叩いてみれば因循姑息の音がする]なんて言ったもんだ。
女も髪を切って落とこのようななりをするのが出て来たんで、お上じゃ慌てて女の断髪はまかりならぬとお触れを出した。
そんな頃だから、強請に来る女は散切り、男は毬栗頭と洒落込んだんでしょう。

台詞の中じゃあ、坊主与三が「かかる開化の世の中に」と云ってみたり、鳶頭の蝙蝠安の啖呵に「気は張りがねのテレガラフ(テレグラフ=電信)」だの「当時流行りのから傘を杖と頼んだ蝙蝠安」だのと当時を当て込んでいるけど、『散切りお富』で描かれるのは江戸風俗。

 明治の御代を舞台にあげた「散切り狂言(散切り物)」は、翌年の『東京日新聞』が最初だ。
初めての日刊紙“東京日日新聞“が出たのがこの明治五年二月だったから、これも流行りもの。
 陸蒸気が品川から横浜へ走って、その横浜ぢゃガス灯が灯った。京都と東京の間には電信が架った。
お侍も刀を差さなくてよくなったし、徴兵令が出たのもこの頃だった。


 三代中村仲蔵(『明治おばけ暦』劇中劇『散切りお富』多左衛門 役)
篇:松涛喜八郎
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夢の跡


夏草に蝉時雨
 大濠(おおほり)公園、舞鶴公園という大公園が並ぶ地域は、
福岡天神から会館のある百道方面への道すがら。
小島に渡る橋で縦断できる大濠公園の池は、万葉の時代には外海に船出する入り江。春には桜で埋まる。
 天気の優れない公園を散歩したのは廣田弘毅の像があると聞いたからだが、
見付けられないまま護国神社のある裏手に抜けてしまった。と、元首相の像は其処に建っていた。
 天守台への道

隣の城跡は僅かな櫓と雄渾な石垣が残る。夏草繁り木々が覆う石垣は夢の跡を演出し、整備された小奇麗な他所の城跡とは一味も二味も違う。
この城内に遣唐使時代の出港拠点にして迎賓館である“鴻臚館”の遺構が発見されたのは1987年。
鴻臚館は全国に三箇所あったが、遺構が見つかったのはここだけ。
医学部教授として福岡に赴任した中山平次郎氏は、元寇土塁の発掘にも参与して福岡考古学に深く貢献する。当時博多駅北方と通説されていた鴻臚館の位置を、万葉歌の記述から福岡城内と推測した。
福岡連隊の跡

時に第二次大戦中、城は御多聞にもれず軍の敷地内。
中山氏は逮捕の危険を冒して奈良時代の陶片を発見、確信を深めた。
戦後、群舞の跡は平和台と名付けられ球場などスポーツ施設となった。
平和台球場記念モニュメント
西鉄ライオンズのホームグラウンドとして親しまれた平和台球場解体工事の際、
第一次から三次の鴻臚館遺構が良好な状態で発見、中山氏の説は実証された。
氏が85歳で没して31年が経っていた。
 
 古の交流の跡の発掘整備は、平和台の地にまだ続けられている。


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三人於富因果腸 さんにんおとみ こころのこだわり

(戯文 芸界通信 印斗羅熱湯7)
          玄冶店あと。

『ザンギリお富』の元は、もちろん『切られ与三郎』(『與話情浮名横櫛』)だ。
104日打ち通したと云う『佐倉義民伝』に続いての三代瀬川如皐、大当たり80日余り打ち通した。
『ザンギリお富』の明治五年より20年も前のことさ。

この切られ与三で蝙蝠安を演じたのが、わっちの出世作になった。この役や『髪結新三』の家主長兵衛の役を、四代目の松助が受け継いで現在に至るってわけだ。
 木更津のお富の見染めは、鰈が跳ねると云う趣向で書かれてたんだが、それを今の羽織落しにしたのはわっちの工夫、ホンも相談して随分変えた。元のホンならああは評判にならなかったんじゃねえかネェ。
 おっと、こいつぁ飛んだ手前味噌だ。

 この如皐の師匠が亡くなった年に河竹の師匠は、
黙阿弥と号して〝引退“披露をすることになるんだが、
三代如皐と二代新七―黙阿弥の師匠とは、
若いころから深い因縁があったのさ。


 如皐の方が年は上だが、この世界入ったのは河竹の師匠が先。
同じ五世鶴屋南北―『四谷怪談』を書いた四世の孫で孫太郎南北と言われる人だーの元で修業した。
 
 ご改暦や三座猿若町への移転のあった天保の終わり頃に河竹新七の二代目を名乗って立て作者になるんだが、黙阿弥師匠のいる

 河原崎座座元・六代権之助は、石橋を叩いて渡る方だからなかなか新作を書かせてくれない。
一方、中村座は如皐にどんどん新作を書かせるから、『佐倉義民伝』『切られ与三郎』と続けて大当たりをとった。
 黙阿弥師匠、夜中にふらふらと歩いて永代橋にかかった時、
ここから身を投げちまおうかと思ったと、昔語りに話して呉れたっけが。

 が、明暗一転するのは翌年だ。
『義民伝』で宗五郎を演じた四代目小團次七役早替わりの
化け猫騒動芝居を書いたところ、佐賀の鍋島様から苦情が入って上演中止、
小團次は河原崎座に移っちまった。

 小團次がぱぁとなぁになってから新作も書かせて貰えるようになって
黙阿弥師匠の筆が冴えるんだから人間先のこたぁ判らない。
如皐の作で今でも舞台に上がるのはさっき言った二つくらいのもんだが、
河竹の師匠のときたら数え切れないンだから。
 

その師匠が、如皐の創った『切られ与三郎』の趣向を三度まで使っているのは、
何かこだわりがあったかねェ。


 三代中村仲蔵(『明治おばけ暦』劇中劇『散切りお富』多左衛門 役)
篇:松涛喜八郎
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ほうじょうや

 元寇ゆかりの額

筥崎宮前駅は、改札を出るのも行列の賑わい。
幅広い参道は、人波と露天が見渡す限り。突き辺りには両側とも
筥崎鳥居と呼ばれる独特の鳥居が建ってどちらに進んでいいのか判らない。
千年以上続く筥崎宮放生会は、春のどんたく、夏の山笠と並ぶ博多の三大祭の一つ。
今年は二年に一度の神輿行列も出る年廻り。
一般にはホウジョウエだが、ここだけは何故かホウジョウヤと呼ぶ。

神事は公演中に行われているので雰囲気だけでも見ておこうと、昼公演を終えて地下鉄に乗った。

人の流れで何となく見当をつけて社と思しき方に歩きだすが、歩いても歩いても露店が続く。
参道も境内も桁外れに広い

お好み焼き屋、肉巻き屋に交じって、大宰府天満宮の各茶屋が出している梅ヶ枝餅がこの地域らしい。
葉付の新生姜を積み上げた店も何軒もあるのも、名物の一つという。
お化け屋敷が三軒ほどあるのも名物とのこと。参道から脇へ入った方へも続いていた露店の先にそれはあったのだろう。
 
亀すくい、金魚すくいの露店は、放生会の趣旨からは聊か違和を感じる。本来は落語の枕などにも出て来る「放し亀」だったものが姿を変えたものと思われる。善人があるので亀が酷くされ、と川柳子が言うように、捕まえて来た亀を八文なり一六文なりで売って放流させる「放し亀」自体、元々矛盾に満ちた行事ではあるが。

明日の神事で、七日七夜の祭は終わる。二十日には、清めの砂をすくうお潮井とりの行事でまた賑わうそうだ


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ゾウ締め出し中

ヒョウ柄は当たり前

福岡市動物園には五年振り。
前回は50周年を越え老朽化の目立つリニューアル計画が固まってきた頃だった。
 この三月に新ゾウ舎がオープン、その奥ではアジアの熱帯渓谷ゾーンなどの大規模工事が続いている。
姿の見えないオランウータンたちは多摩に待機中とのこと。
 給餌観察施設や巨大タワーの整備された新チンパンジー舎は旬日中にも公開予定。明日からの連休で御目見えかもしれない。新チンパンジー舎・左のキリンと御比較あれ蟻塚型給餌器も垣間見えた

他にもアフリカ草原エリア、日本の自然エリアなどが予定され、バードガーデンエリアは植物園ゾーン内に出来る模様。動物行動、環境への適応エリアという項目も興味を惹く。

 五年前に死去した北極熊はリニューアル構想の為か後釜はまだ来ていない。
ゴリラ舎では一月にウィリーが天寿を全う、シルバーバックの血を引くビンドンも心なしか痩せたよう。
やんちゃな河馬
 河馬舎近くに公開されて三月半のヒョウは「本当にヒョウ柄だね」などと云う見物人を威嚇する。南アフリカの繁殖施設出身というが、油断のない面構えが野生の匂いが漂わせる。天王寺からやってきたニホンコウノトリペアは健在

 野生で絶滅して40年のニホンコウノトリが見られるのも貴重。

 入口近くの新象舎では“ゾウ締め出し中”の掲示。
締め出し中DSCF3592.jpgDSCF3584.jpg

象たちはまだ寝室近くからなかなか離れようとせず、プールや裏手の施設には未だ足を踏み入れない様子。象舎を見渡せる折角の展望台もまだ閉鎖中。植物園への坂にモノレールが完成しているが、この手の施設も整備され、イントランスも様変わり。  
リニューアルが完成するとペンギン舎も流行りの水中トンネルに変わる。
 今の中にひと時代前の動物園を見ておくのも一興かもしれない。

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お布令の雨が降るようだ

 守田座(新富座)の顛末が長くなっちまった。
   

 守田座が新富町に開いた明治五年といやぁ、
年の初めから、幕内の者が度々お呼び出しにあった。
座元に、作者。役者も呼ばれた。わっちも出頭しやしたよ。
十八番の『助六』ぢゃねえが、お触れの雨が降るようだった。

 不道徳なことを書いちゃならねェ、
歴史と違う出鱈目を書いちゃならねェ、ってことになった。
もちろんお上に都合の悪い“本当”を書いた日にゃ、
上演まかりならぬと来るのは先刻承知。

 團菊左と賞された初代左團次のおとっつぁん、
四代目の市川小團次は、追い詰められた貧民の暮らしを写した生世話の名手だったが、
本当の暮らしを本当のように舞台に上げてはならぬと徳川様に云われて憤死したんだ。
今度はうそを書いちゃあならねェと云う。

 江戸300年の間にぺえぺえの役者から座頭まで上り詰めたのは
この四代目小團次と初代仲蔵くらいだね。
四代目小團次てのは、『三人吉三』の和尚吉三やなんかを初演した
黙阿弥の師匠の“ぱあとなあ”だ。

 へへ、こっちにもどんどん新しい人が来てるからね。
ハイカラな言葉も少しは憶えるのさ。
黙阿弥の師匠なんざ若い人に“アーミー”とか呼ばれてやに下ってら。

 こっちぢゃあ、團菊爺ィ、菊吉婆ァなんてのは流行らねぇ。
娑婆で新しいものを見てきた奴が威張ってるよ。
なにしろ初代の成田屋でも出雲の阿国でも
ここちゃ何だって観られるんだから。

阿国なんぞ、達者なもんだ、とてもアラ・フォー、
アラウンド・フォーハンドレッドにゃ見えねぇよ。
おっとどうも話が脇へそれていけねぇ


 これからは外国人も芝居を観るんだから、手本になるようなものをやれとか、
史実と違うことはまかりならぬとかね、男女の色模様は不謹慎だとか…
役者なんて謹慎してやる商売じゃありませんやね。
「親子で顔を赤めるような芝居は新富町ぢゃあやりゃあしねェ」なんて
芝居の台詞に書いていたが、黙阿弥の師匠、胸中穏やかぢゃなかっただろうよ。

 狂言の検閲が始まったのもこの年だ。ざっと75年、メリケンとの戦争が終わるまで続いたってねぇ。
                            (この項続く) 

 三代中村仲蔵(『明治おばけ暦』劇中劇『散切りお富』多左衛門 役)
篇:松涛喜八郎
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「天璋院様のご祐筆の妹のお嫁に行った先のおっかさんの甥の娘」

 小屋の近辺の地図にもう一つ見慣れない名所が記されていた。
高名な西郷隆盛像の東方、城跡の中に『天璋院像』と。

昨年末に建った天璋院像

 天璋院と聞くと、口をつくのが『吾輩は猫である』のこのフレーズ。
近所の美貌家“三毛子”に飼い主の素性を聞いたら返ってきた答。
つまるところ天璋院様の何にあたるのか、“吾輩“が聞き返すと同じ答えが返ってくる。
試みに“つまるところ”何なのか考えてみると、
「お嫁に行った先のおっかさん」部分は、妹の「姑」に詰められ、
「甥の娘」には「姪孫(てっそん)」という余り馴染のない言葉があるようだから、
「天璋院様のご祐筆の妹の姑の姪孫」と言葉だけは詰まる。
が、なおなお要領を得ない。 
 明治の漱石さんに何か計算の根拠があっての設定かどうか、
もともと天璋院様とは何の血縁もないご祐筆さんから七親等、
今の民法では丁度親族から外れる。

08年末の鹿児島公演時には、翌年上演の『江戸城総攻』の為に幕末史跡を廻った。
大河ドラマ『篤姫』の頃だったが、像を目にした記憶がない。
除幕は昨年末。大河ドラマの年に仮設したテーマ館の収益で建てられた像だと云う。


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或る小屋の生涯―天覧と国立と―

(芸界通信 印斗羅熱湯5)

 それでも(守田)勘弥の旦那が借金抱えて踏ん張ったのは、
一つには、お偉方から出た国立劇場を建設の目論見に気があったんだろうねぇ。
黙阿弥の師匠から古河新水てェ名前を貰って狂言作者までやって幕を開けた。
 国立の小屋が本当に出来るのは80年もあとのことだがね。

 40歳過ぎた頃、世にいう鹿鳴館時代には、
天子様にご覧頂く“天覧劇”を取り仕切った。
この時は黙阿弥の師匠は立ち会わなかった。
 花道なしで『勧進帳』をやらせようなんて連中がいたそうだから、
勘弥がいなかったらどうなっていたことやら。

 わっち?わっちはその二年前にこっちに来ちまったのさ。
もう、“團菊左”といわれた團十郎(九代目)、菊五郎(五代目)、左團次(初代)が、
当代一の役者と言われるようになった頃だ。

 天覧が無事終わったと思ったら、すぐに木挽町に大きな小屋が建った。
千葉勝五郎と福地桜痴がつくった歌舞伎座だ。
後には歌舞伎座顧問に納まる勘弥だが、
新富座座元としてはこの大きな競争相手との戦いに明け暮れた。

 新富座は後に持ち主がコロコロと変わって、
勘弥晩年には座元の位置を追われたが、
すぐ歌舞伎座に迎えられて、興行の仕事を離れることはなかったね。
新富座を失くして二年後、波瀾万丈の生涯を終えた。
人間五十年、夢幻の如くなりだ。

 松竹(まつたけ)合名会社が東京に出て来た時、
最初に買収したのも勘弥の手を離れた新富座。
これも露払いを勤めた、関東大震災にあって、命終わった。
 ざっとこれが新富座の顛末さ。

 木挽町の森田座から260年余り、徳川の幕府と丁度同じ位、
新富町に移ってから五十数年。
 新国劇の旗揚もここだし、曾我廼家喜劇の東京進出もここ、
演説会の開場として政変の舞台にもなった。

 悪場所変じて今はお役所てぇのも、まぁ一興かねえ。
(この項続く)
 三代中村仲蔵(『明治おばけ暦』劇中劇『散切りお富』多左衛門 役)
篇:松涛喜八郎
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薩摩暦


 鹿児島の繁華街は、天文館。
有名ラーメン店やシロクマ、デパートが並ぶここは、その名の通り天文台跡。
アーケードのど真ん中に建つ天文方の像

江戸時代、幕府が暦を管掌する中、薩摩だけは独自の暦を作ることを許されていた。
 遠隔地で天文上のずれがあるというのが理由だが、幕藩体制の中での薩摩の位置を物語るものでもある。
関ヶ原敗軍側でありながら、領土を保全し、また正確な暦をつくり得る科学技術国でもあった。

 暦は支配の象徴。多分、ここでは西南戦争後まで西暦は実用されなかったのではあるまいか。

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丁髷と燕尾服と

(戯文 芸界通信 印斗羅熱湯 4)

 株式会社になった新富座だったが、これまた二年ほどの命だった。
日本橋から出た火事で、他の主だった小屋と一緒に焼け落ちた。
 それでも勘弥旦那、治まったばかりの西南戦争の事情をお偉方から聞き出して
仮小屋で芝居に仕込んで、大当たりをとった。

二年後には、本格的な西洋式劇場として再開場した。
 ガス灯の照明あてて、夜興行を打ったのも日の本・初だ。
 
外国公使や政府の役人も招いた盛大な開場式だった。
幕内も皆燕尾服てぇ奴を一着に及んでご参列だ。
背中の方がツバクロの尾っぽの様のが、礼装と明治五年に政府が決めたんだ。
後の天覧歌舞伎の時には勘弥旦那この姿で揚げ幕係を勤めた。

 黙阿弥の師匠も還暦の歳に丁髷を切って、この日は珍しく洋装。
え?わっちは、へへ、丁髷を切るも切らないもご覧のとおりの有様でね。
最前列の下手端に黙阿弥の師匠と並んでた。

その時だったかな、「ご一新なんて大きな御家騒動に過ぎねぇのさ」と言ったのは。
舞台の御家騒動は他人事だが、この大きな御家騒動は幕内にも火の粉が降り掛かってくる分
始末に悪いや。

 翌年は外国公使たちに果ては、先の米大統領グラント将軍と、異人の賓客が続いて
新劇場、面目躍如だった。
 西洋人を初めて舞台に上げたのもこの新しい新富座だ。
『漂流奇譚西洋劇』、劇中劇として異人さんの芝居を組んだんだが、評判芳しからず。
朝飯にもパンだ、こおふぃだ、って言ってた勘弥旦那、
これで一遍に西洋熱が冷めちまった。
            
 それでも借金抱えて踏ん張ったのは、
一つには、お偉方から言われた国立劇場建設の目論見に気があったんだろうねぇ。

 三代中村仲蔵(『明治おばけ暦』劇中劇『散切りお富』多左衛門 役)
篇:松涛喜八郎
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歴史上の人物

ほとんど雨にも会わない旅。
乾いた鹿児島市街に、火山灰が舞いあがって眼を襲う。
城山の堀の蓮の葉に宿るのも、灰に濁る黒い露。
天神社前の相撲大会、女子も

 昼公演を終えてふらりと寄った天文館あたりのアーケードでは神社の前で子供相撲大会。

街頭の地図には、向田邦子住居跡の文字。飛行機事故で逝った女史は今年没後30年。鹿児島に住んでいたのは10歳の頃二年間ほどという。

 いつか満月に近い白い月が大きく掛っていた。

小さな記念碑は墓石に似る

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大きな御家騒動

     (戯文 芸界通信 印斗羅熱湯3)
会津:鶴が城
え?『JIN』にも出て来た?何だい〝じん“てなぁ?
へぇ?そっちの時代の人が御一新の頃に時代を滑り落ちて来る話?
そうそう、芝居はそういう絵空事が面白いんだ。
それを新政府のお偉方ときたら、狂言綺語はまかりならぬ、
本当のことを芝居にしろ、てんだから、何にも判っちゃいねぇ。
絵空事の中に本コがあるのを御存じねぇンだ。

おっと、何の話だっけ。松本良順?

 海で泳げだの、牛乳を飲めだのと勧めたお医者だね。
大磯の海岸には、最初の海水浴場を開いたてんで石塔がおっ建ってる筈だ。
守田座が出来た頃には、良の字を取って松本順と名乗っていなすったがね。

蘭方の先生で、旧幕の頃には将軍家の脈をとり、
新政府でも働いた偉ぇ人だが、
ご一新の時には、会津に走った。
鶴が城 白虎隊の碑

名城・鶴が城に入って“官軍”と闘う兵隊の治療をしてたんだが、
篭城が始まるって時に、殿さまが松本先生たちを呼んで城を落ちるように頼んだ。
で、新撰組の土方歳三たちと一緒に、さらに北に向かったんだね。
『勧進帳』ぢゃねぇが、安宅の関でひと悶着あったてぇが、無事仙台に入った。そこで、
蝦夷地―北海道でもう一戦という土方と袂を分かって、松本先生、江戸にもどって獄に下った。
後に許されて、初代の陸軍軍医総監まで勤めなすったよ。
         維新発祥の碑

 黙阿弥の師匠がぼそっと言ったことがあったねぇ。
「ご一新なんて、大きな御家騒動に過ぎない」って。
芝居の御家騒動は、善人方が勝つのを見てりゃあいいけど、
本物の御家騒動は、はた迷惑なものさ。
 
 この松本良順先生が、大久保はじめ新政府の要人と守田勘弥との橋渡しをした。
だから勘弥は京橋辺りがこれから繁華街になるという話を仕入れて、
新富町に新しい守田座を建てたわけだ。
それが、二年で株式会社 新富座になったのは、前に話した通りさ。
(この項続く)

 三代中村仲蔵(『明治おばけ暦』劇中劇『散切りお富』多左衛門 役)
篇:松涛喜八郎
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坐らないでください

車中標識

 JR九州は、カラフルな車輛、個性的な車輛が目に立つ。
もう一つ他で見かけないのがドアなどにあるこの標識。
九州の人は、こう書かないと車両の床に座ってしまう習慣があるのか、
随分、九州も廻っているが、そういう光景の印象はない。

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株式会社 新富座

        (芸界通信 印杜羅熱湯2)
        
 中央税務署

ほい、来たかい。
『ザンギリお富』だね。云ったように新富町に移ってきた守田座の杮落しだ。
一番目が『三国無双瓢軍扇』太閤秀吉の明智討ちから大徳寺焼香までで、わっち(三代仲蔵)は柴田勝家、
中幕に『国姓爺合戦』で老一官、
二番目が『月宴升毬栗(つきのえん・ますのいがぐり)』つまり
『散切りお富と坊主与三郎』ってわけだ。

中幕はもちろん大近松だが、一番目と二番目はどっちも黙阿弥の師匠―おっと
あの頃はまだ二代河竹新七の師匠だった―の筆さね。

 新富町の守田座は九月の末に出来あがったんだが、魚河岸と揉めて初日を開けたのは十月半ば。
    新富町

 もっともあの頃はだれも新富町とは呼ばなかった。
“島原の守田座”だ。築地の外国人居留地の為に新島原って遊郭が明治の初めに出来て、
三年ほどでお止めになった。その跡地さ。
え?今は中央税務署?悪場所のなれの果てが年貢の取り立て所かい?
まぁ、芝居小屋が税金を取り立てられるようになった始めが、やっぱりこの年だから因縁はあるのさ。
 序でに江戸三座の他にも興行することが許されて、東京にゃ十座の小屋が乱立することになった。

 守田座の座元は守田勘弥、十二代目だ。このとき弱冠28。
座元を継いで丁度10年、目端の利くことにかけちゃあ誰もかなわねぇ。
 それでも興行の資金繰りには苦労した。
借金のし通しだ。50過ぎで死んだ時にゃぁ、80万円―今の何百億かね―の負債だったって話。
大入りになっても借金が増えたてんだから、割に合わない商売さね。

 『ザンギリお富』で杮落しをした守田座は、なまこ壁に屋根はブリキ張り、
これからは異人のお客も来るってんで
椅子席を採り入れたのもこれが皮切りだ。
 実際、この十月中にロシアの王子様とかが
『国姓爺』をご覧になった。これが異人の歌舞伎見物のお初だ。
小屋の間口・奥行とも猿若町より四間ほど広かった。
猿若町の時は雨が降ると客足が止まったが、新富町では却ってお客が増えて来たもんだ。
  
だが、守田座と云う名前は二年しきゃ続かなかった。
明治八年の一月に株式会社になった。
芝居小屋が株式会社になったのはこれまた初めて、初めてづくしの小屋だ。
借金がかさんで上手くいかない経営を乗り切るための株式会社だったってことだ。
座元一人のものじゃないから、名前も地名をとって新富座と改めた。
江戸三座の名前が消えたのも守田座が先陣を切っちまった。
      新富座跡

 猿若町から何処に芝居小屋を移してもお構いなしってお触れは、
明治の元年には出たんだが、
場所の心当たりも無し、第一、何処も資金繰りでそれどころぢゃねえやな。
三座の中逸早く、守田座が島原に目をつけた。

 この辺りが盛り場になるってことを新政府のお偉方から聞き込んだんだね。
お偉方が大挙して西洋視察に出掛けた岩倉使節団出港の時には、
横浜へ見送りに行ったという位で、
勘弥の旦那、お偉方に顔が利いた。

 お偉方と勘弥を取り持ったのは、奥医師も勤めた松本順てェお人だがね。
え?『JIN』にも出てました?何だい?ジンてなぁ。
(この項続く)

 三代中村仲蔵(『明治おばけ暦』劇中劇『散切りお富』多左衛門 役)
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季節のかわる日

バイカモの中、産卵中
舞台がはねて楽屋口を出ると季節が替っていた。搬出トラック脇の小川べりにはすだく虫の音。
今年初めての秋の風。まだ暑さは続くとTVは言うが、ようやく季節が廻り始めたよう。
熊本の小京都・人吉、今回は会館とホテルの廻り位だけで終始したが、会館裏の小川には黒藻が華開き羽黒蜻蛉が群れ飛んでいた。トンボたちも夏の終わりの祭に勤しむ。

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戯文芸界通信 印斗羅熱湯 1

   島原の守田座
 遠山の金さん
 うン?わっちかい?あいよ。

 『ザンギリお富』のことを聞きたい?
あぁ、わっちも出てたよ。但馬屋の主・多左衛門役だ。
ありゃあ、江戸三座が30年振りに猿若町を離れた最初の興行だった。
 10月13日から42日間打ち通して、11月24日に打ち上げたら7日のちに元日だ。
あんな妙な年はなかったねぇ。

え?戸籍調べかい?
中村仲蔵。そっちに居りゃあ200と2歳だ。
いや、『忠臣蔵』の定九郎を工夫したのは初代の仲蔵、栄屋だが、
わっちは三代目。舞鶴屋の仲蔵だ。
鶴蔵?ああ、中村鶴蔵、中鶴(なかつる)の初代は、わっちの若いころの名前さね。

 ところで、このカラクリは何なんだい?え?いんとらねっとう?
へ~え、九代目や音羽屋の倅の処に『無線電話』だかが掛って
声が聞こえた時も驚いたもんだが、姿まで。
こいつぁまた魂消たね。たいした開化だ。

 『ザンギリお富』を演ったのが明治の五年目かい?
急なご改暦だったね。大体、暦を改める時ぁ、あらかじめ一年も前から
お触れを出して知らせたもんだ。その前のご改暦―天保の時はそうだった。
水野なんとかってぇご老中が芝居を取り潰すって云いだした頃だ。
 天保の世直し、ご改革って奴さ。
ご改革と来りゃあ、芝居にあれこれ文句がつくのはお定まりだ。
その昔には、心中物はまかりならぬと来たしね。
       遠山金四郎景元
 まぁ、芝居お取りつぶしは、遠山様という粋なお奉行が頑張って、
何とか場所替えで納まったのさ。
江戸三座は浅草の沼地の跡に押し込められた。
今はどうだか知らないが、当時は辺鄙なところさね。
古池や 歌舞伎飛び込む 水の音
ってぇ落首が出たもんだ。

 それから30年、芝居も役者も猿若町と名前のかわった
其の沼地跡から出ることが出来なかったんだが、
ご一新で許されて初めて飛び出したのが、守田座。
その杮落しが『散切りお富』ってわけだ。
もっとも守田座って名前は、二年ほどしきゃ続かなかったがね。

 やれやれ、久し振りに長話でくたぶれちまった。
また思い出しとくよ。今日はこの辺でチョンだ。

 え?何だい?お礼は如何ほど?いらねぇ、いらねぇ。
どんなに金の亡者でもこっちィ来たら慾しがらねぇ。
本物の亡者は皆〝お足“にゃ縁がねえんだ。

 三代中村仲蔵(『明治おばけ暦』劇中劇『散切りお富』多左衛門 役)
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明治かぶき暦

蓮満開の不忍池と弁天堂

 江戸の鬼門を守る上野・寛永寺は、京都の鬼門・比叡山延暦寺の格。上野の山一帯が比叡山周辺に見立てられている。不忍池は、琵琶湖の格。中央にある弁天島は竹生島にあたる。
 この弁天島、一角に不思議な石碑が並ぶ。
河豚の供養塔、眼鏡の碑、スッポン感謝の碑、鳥塚、魚塚、包丁塚そして暦塚もここに建つ。
不忍池の暦塚
               
 グレゴリオ暦―いわゆる西暦―が世界で最初に採用されたのは、本能寺の変のあった年。
ローマ教皇によって採用された暦だから、新教徒の国で採用されるまでには百年あまりの落差が出来たが、現在ほぼ全世界で使われている。
グレゴリウス暦の前に使われていたのは、同じく太陽暦のユリウス暦。その名の通りユリウス・カエサル=ジュリアス・シーザーが改めた暦。紀元前から1600年余り使われ続けて大分大きな誤差が出ていた。
改暦の理由も、旧暦がずれて来たから、より正確な計算法が出来たから、というばかりではない。
中国では治世が替ると改暦することが多く日本や西洋よりずっと改暦度数が多い。
天から統治権を与えられた建前の権力者、天体と一体、或いは店の運行をも支配すると云うのは
昔の為政者の重要なファクターだったのだろう。
平清盛には、太陽を招き返したという伝説がある。

 グレゴリオ暦が生まれた年、織田信長も、尾張の暦を京都で採用しようとした矢先
本能寺に斃れた。
 アジアでグレゴリオ暦採用の先鞭をつけた日本の西暦改暦は、明治維新5年目。突然のお触れから実施まで22日。
太陽が時間を与えた

秋の前進座東京公演は、そのてんやわんやの時代を描く『明治おばけ暦』。
筆をとるのは朝ドラ『ゲゲゲの女房』、再来年大河ドラマ『八重の桜』の
山本むつみ先生。

 歌舞伎の世界にも変化の波が押し寄せたのがこの年。
次回から、その事情を戯文“芸界通信”を載せていきます。
その為口上左様。
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