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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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動物と言う名の他者たち

 インドオオコウモリの一群は、西日の中それぞれに両翼で扇いで涼をとっていた。

 欠伸をするもの、餌をむさぼるもの、二頭はそれぞれ我が仔を胸に抱く。尿意を催した時だけ、両手で天井にぶら下がって用を足す。彼らにも日光浴が必要なのだという。

蝙蝠の逆立ち子持ち蝙蝠

 大抵の動物園では、夜行性動物展示の暗がりの中で光る目だけを見る蝙蝠が、ここでは意外な素顔を見せてくれた。いやいや子供の頃こんな明るさの中でフルーツを食べる大蝙蝠を見たことがある。あれは、飼育係体験をした東山だったろうか。

 蝙蝠と言うと、超音波を頼りに飛ぶ者と思うが、あれは主に小型蝙蝠。オオコウモリの殆どは、有視界飛行をする。

 蝙蝠はこんなもの、ペンギンはこんなもの、という先入観を、動物園は打ち壊して、動物達と言う他者に出会わせてくれる。
 何国人はこんなもの、あの人はこんな人、と何時の間にか決め付けて安心してしまう習性を、人類は持ってはいないだろうか。


 京都南座強行軍の公演を終えて、閉園間際の園でホッと一息をついた。五年と半年振りの京都市動物園。五年前の一月には、隣の美術館が“画家達の動物園”という企画展を開いていた。
 冬の動物園は閑散としていたが、風格と愛嬌を兼ね備えたクロハゲワシが印象的だった。


 今回目当てのオランウータンは昼寝の洞窟から出てこなかったが、プールにダイビングを重ねる猿たちや、散水の虹の中に嬉々と躍動するエミュー、他にも名優には事欠かない。

獅子の午餐

 どの動物園も置かれた条件の中で様々な努力を重ねている。
 
 処で何処にもある古典的な展示に、延々並ぶキジ舎がある。キンケイ、ギンケイ、ニジキジ、ミミキジそして孔雀たち。色彩豊かで基本的に地上生活をする彼らは場所をとらない動物園に格好の住人達だったのかもしれない。
 昔ながらの雉の長屋が大抵の動物園には残っている。

 この長屋を建て直して雉の仲間たちを興味深く見せてくれる工夫があったら、全国の動物園への大きな福音となろうと思うが、如何なものであろうか。

歓迎?

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しはい


“グラビア界の黒船”というのが、リア・ディゾンの売り文句。
 なるほど、雑誌のCMに出てくる四人ほどの女性のどれが“エビちゃん”でどれがカニちゃんやら区別がつかない右へ倣えと較べれば、他と差異のあるだけでも彼女は存在価値を放っている。
 
それはさて置き、はたち前後の本人やファン達には、“黒船”という言葉がどんなイメージで迎えられているのか、些か興味あるところ。



 1853年の夏、ペリー提督が引き連れてきた四艘の西洋船が黒船。お茶の“上喜撰”と掛けて“太平の眠りを覚ます蒸気船”と詠まれたが、内訳は蒸気船二杯に帆船二杯。鯨油目的の捕鯨と中国貿易の補給基地としての日本の開港を求めての事だったとされる。
 この“たった四杯で夜も寝られず”という大騒ぎが、“幕末”と呼ばれる動乱時代の幕開けとなった。“攘夷=外国打ち払い”か“開国”かの論議は、“勤皇・尊王”対“佐幕”という政権選択と複雑に絡んでいく。


 この大騒ぎの中で、衝撃の源“黒船”そのものを自分達の手で作ってみなければ、と動いた実感主義者達の存在は一種感動的でさえある。
ペリーの黒船の姿を前に、薩摩・肥前・宇和島の藩主達は、自らの手で黒船を建造することを発念し、事実三年後に相前後して進水している。  伊達宗城宇和島藩主による黒船建造は、司馬遼太郎原作の大河ドラマ『花神』にも描かれた。


 一方、操船技術習得は、幕府による長崎海軍伝習所がその先鞭をつけた。
 ここに学んだ勝海舟らが「日本人による渡米航海」(括弧つきながら)を実現するのは、ペリー来航から七年後の1860年。
ペリーはその二年以前に64で没し、咸臨丸を見る事はなかった。ペリーの死の翌年、鯨油に代わる石油が米国内で発見される。

 様々な事情が絡み合って歴史は織られていく。

咸臨丸

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しばらくお待ちください


 先月の記事?を書いていて、不図おもいだしたが、“しばらくおまちください”というTV画面を知っている方はもう少ないのではないだろうか。いや、私が知っているのだから少なくもこの国の半分くらいの人が経験している筈なのだが、自分自身がふと思い出すまではすっかり記憶の彼方に埋もれていた事から推して、まぁそんなものだろう。

 三年もすれば消えていく地上波テレヴィジョンは、想えばかくも遠くへ来た。わが4、5歳の砌、TVに『ひょっこりひょうたん島』がライヴで映っていた時代には、午後四時五分になると『受信相談』なる番組が放映されていた。
 「四時五分、四時五分、楽しくテレビを見るために、楽しくラジオを聴くために、憶えておくと便利です。テレビもラジオもなんでも(どこでも?理屈から言うとこちらのように思う)受信、受信相談」
というのが記憶するそのテーマ・ソング。まだまだ津々浦々で快適にTVを受信することは困難だったのだろう。

 そして、個々の受信機の状態以前に、局の事情で画面はフリーズしたし、それを待っている余裕が人々にあった。それとも、TVに依存しない生活をしっかり持っていたということだろうか。今パソコンのフリーズを待てずに、キーを立て続けに押してこじらせてしまう我々は何なのだろう。

 大河ドラマ第七作『天と地と』は川中島の一本のみが残っているらしい。先月、BS番組でその映像の一部が放映された。
 謙信・信玄の心理を追った映像。視聴者に想像させるこの余白が現代のドラマにはなくなったとスタジオのゲストは語っていた。
 一昔前には、ジェットコースター・ドラマと称されるものが、横行した。急展開を身上とし、一回分見逃すと訳がわからなくなると喧伝された。

 時代と共に芝居もドラマも変わっていく。それは時代の要請。でも嘗ては、ご見物が想像する余白が間であり、もしかしたらゆったりとした舞台転換もそんな豊かな想像を育む時間だったのかもしれない。
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私は何でこのような・・・


 『総員玉砕せよ!』が文庫になって平積みされていた。
 その帯には、『水木しげるの戦争』という題名でNHKドラマ化、12日に放映される旨が記してある。
 「やられた!」というのが、心の中での第一声だったが、これは不穏当極まりない。
 他の作品や南洋体験と絡めてこれを舞台化できないかと漠然と考え出してからは随分経つが、未だ具体的な形には至っていないし、もともと映像が今まで手をつけなかったことが不思議なくらいの素材である。


 学生時代、神田の書店で出会った件の作は、雑誌サイズ、ムック風の単行本。中国戦線を描いた短編『姑娘』と『こくりばばあ』とが併録されていた。

 昭和十八年に応召した武良(=水木)しげる二等兵は、ラッパ卒からの配置転換を願い出て、「南と北とどちらがいい?」との問いに答えた「南」の野戦に送られる。補給路が絶たれる直前の最後の輸送船団だった。

 歩哨に立っていて隊全滅の襲撃を免れ、ヌリカベに助けられつつ命からがら本隊に戻った作者を待っていたのは、「何故生き残った、次には真っ先に死ね」という言葉だった。その後、マラリアを発病、左腕を失くす事になるが、その間に“幻のズンケン玉砕事件”が起こる。


 ズンケンは、ラバウル等僅かの地域を残して米軍に占領されたニューブリテン島の接戦地域である。

 終戦の年の三月、ズンケン支隊500名余が斬り込み玉砕したと大本営に報告された。ラバウル十万将兵の鑑とされたが、140名の生存者が確認された。
 命令にも報告にも手落ちがあった。発表の手前全員銃殺と師団長等は息巻いたが、軍医中尉らの抗議自決などにより、次期戦闘での玉砕を期待された“敗残兵”たちは別の隊に配属された。
 敗戦の到来により、実際には行われなかった第二次突撃を描いた他は、作品はほぼ事実どおりと生存者は証言している。

 もっとも作者はその頃、回された野戦病院で、トペトロ少年ら“森の人”に出会い、生命が攻勢に転じたのを感じていた。
 
 ラバウルの記録や娘に語る戦記、戦場マンガや後に『コミック昭和史』にも筆を染めた作者が、公式記録などを精査して描きあげたものである。
総員玉砕せよ


 戦後28年の夏、水木しげるとなった武良二等兵は、最後の突撃に行く兵隊達に『女郎の歌』を歌わせている。

 「私は何でこのような、辛い勤めをせにゃならぬ」

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