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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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五分間

 ここもまた、郊外に移転した動物園。バード・ケージなどなくとも野生の青鷺たちが園内に営巣し、ペンギン舎やアシカ舎に出没する。
 1953年創立の道後動物園からこの白磁の里に移転開園して19年。北極熊で繁殖賞を得たことは有名。
白がベニガオザルのベイビー・サイン・とべ

 ベビー・ラッシュ。ライオンの仔デージーは、モンキータウンを出て終日公開となったばかり。アフリカゾウの仔は時間を区切ってお目得。他にもベニガオザルの子供達が愛嬌を振り撒く。ドキュメンタリーで有名になったピースの他にもスターは多士済々。
アフリカゾウの子供はガラス越しの公開・とべ

 種々の事情による展示休止、ストレスに悩む動物達には観覧の距離を置く配慮……小まめな掲示が、様々な個性をもち問題を抱えながら生きている他者である動物達を浮き彫りにする。
独逸ではシロクマの人工飼育は自然に反すると主張する団体が議論を巻き起こしたが、動物園は所詮自然に反するものなのだ。
ピース・とべ

 アシカや猿の餌の販売機も珍しい。数を制限し内容にも工夫を重ねている様子。モンキータウンの彼方此方には食べ過ぎの旨がことわられている。柵と檻に隔てられた猿舎に投げても餌はなかなか入らないが、テナガザルは檻から伸ばした手で器用にキャッチする。

 展示方法の違いや個性の違いが別の動物園の同じ種では見出せなかった横顔を見せてくれる。何処の園でも脇役に徹していた種が堂々と主役を張っているのに巡り合うことがある。これも動物園めぐりの醍醐味。
某園では、飼育係の説明会まであったのに精彩を欠いていたヒクイドリが、ここでは王者の風格で迎えてくれる。

 巨大鼠車を設えた猿山には“五分間足を止めてください”という旨の看板が掛かっている。そうすれば猿たちは様々な顔を見せてくれる、と。


申とりいる亥・とべ

 雨もよいの中しばし佇むと、同居するイノシシに子猿が飛び乗った。

モンキータウン裏の屋内舎・とべ
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劇場を建てた火消

 絵師の金蔵、通称絵金。

髪結いの子に生まれ、狩野派を学んで御用絵師となるも贋作事件に巻き込まれて城下追放。謎の十年間を経て城下より20kmの商都赤岡に現われ血みどろ芝居絵で名を残した。米屋の蔵を改装して絵金の屏風を収蔵した絵金蔵は開館(蔵?)三年目に入ったばかり。

地芝居の禁じられた時代、宮芝居の代りに絵金の屏風を飾って義太夫に聞き入ったという。
 絵金の弟子に武市半平太がいたり、金蔵の肖像を描いた御用絵師河田小龍が幕末の藩政に深く関わっていたりと、彼を取り巻く群像も興味深い。が、血みどろの屏風絵とは裏腹に彼の後半生は意外に穏やかなものだったようだ。 

 数年前から復活した地芝居“絵金歌舞伎”は、海外にも出かけた。地元では絵金蔵の前の鉄骨舞台で演じられたりしていたというが、嘗てあった芝居小屋弁天坐が間もなく完成、この夏の絵金祭りにはここで上演されるという。蔵と共に町興しの拠点にという熱い想いに支えられての復興。四国には、芝居が街起こしにもなった琴平の前例がある。
絵金蔵

 謹慎する慶喜に従って静岡に住んだ火消新門辰五郎は、同地の消防用水の整備資金を作るために芝居小屋を建てたという。お金を作るために芝居をした。興行は資金作り、儲けるためにする行為だった、ということに今更ながら驚く。他に娯楽のない時代だったとは言え。
 
 地方で芝居を観ることが困難だった時代、会員制の演劇鑑賞会が全国に生まれた。今現在四国を周らせて頂いているのも、その主催公演。その会員さんたちの中に、年金生活に入って芝居を楽しみにと思って居たら“改革”で税金、医療費と負担が増え、会費が払えない、と退会していく方達もあると聞く。芝居は、先ず切り捨てられる余剰の部分でもある。

 兎もあれ、またひとつ小屋が誕まれる。 

完成間近い弁天座

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しばてん



 象も居ない、犀も河馬も居ない、獅子も虎も白熊も居ない。が、カワウソは三種類。
 
 のいち動物公園には、115種1500頭匹羽がバイオーム形式に住まう。檻を極力減らし、動物たちが生活していた本来の環境に近づけた展示。
日本初の熱帯雨林舘ではオオアリクイやナマケモノが間近に見られる。四頭目のマレーグマの子供は先日命名式を終えたばかり。

公式ウェブ頁の表紙を飾っているワオキツネザルの家族に実は期待していた。が、少々寒いのか二頭だけが閉ざされた宿舎への通路を往き来するばかり。何れが龍馬で乙女やら残念ながらわからない。
子どもと一族・ひらかわワオキツネザル一家・ひらかわ


 香南市にある動物園は高知市街からは19km。自転車で一時間余りだが、のいち駅近辺にも標識は見当たらず、聞き聞きようやく辿り付くまでに三十分弱。
園のからくり時計は15時を打っていた。アフリカ・オーストラリアゾーンは16時まで。大急ぎで順路の終点まで行って逆回りした。周囲は木々にブランコなどのついた冒険の森になっている。
20時間寝るという二指ナマケモノ活発に食事中・のいち無防備?・のいち


かわうそ・まるやま


泳ぎ続けるカナダカワウソの額に枯葉が引っかかっている。

こんな情景から木の葉で化けるという伝説が生まれたのかもしれない。国内園のカワウソ血統管理は当園の担当。コツメ、ユーラシアと三種のカワウソたちは日本川獺に近い種類といわれている。川獺を通じて環境と人間との関係を考えて欲しいという。

ニホンカワウソは、戦前の毛皮・薬用目的の乱獲と戦後高度成長の環境破壊とで激減した。高知に最後の足跡を残していたが79年以来目撃情報はない。

 しばてん、えんこうは、河童・かわうそを指す土佐言葉。土佐のしばてんたちは滅びてしまったのか、それとも人間たちに覚られない処にひっそりとコミュニティーを築いているのだろうか。

アフリカゾーンの展望台

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火事喧嘩大名小路広小路


 金属の盗難が相次いでいる。電線や側溝の蓋、そして消防団の櫓に掛けられた半鐘も被害の対象となり、無事なものもはずして保管されているという。
 気にしていないと見過ごしているものは数え切れないが、意識にのぼった途端に、それらは隠し絵のように街のそこかしこに見えてくる。消防団の建物も、いつもの街角のあちらこちらに姿を現した。


 江戸の火消しは、大名火消、定火消、そして町火消。
 現代の火消しにも三種類があり、その全てが町火消しの流れを汲んでいるが、中でも最も色濃く衣鉢を継いでいるのが消防団。戦時中の警防団を経て現代の消防団に至っている。


 「武士 鰹 大名小路 広小路 茶店 紫 火消 錦絵 火事に喧嘩に中っ腹 伊勢屋 稲荷に犬の糞」と、これが江戸の名物。
 広小路は火事対策の火除け地だから、火事関係が三つ、喧嘩が二つ。 火事と喧嘩は江戸の華、ともいう。


 武家地、寺社地に大部分をとられた残り二割りほどに町人の家々が密集したのが江戸の町。木と紙の家。一旦起きた火事は際限なく燃え広がる。
 鳶口で屋根を破って火を上に逃がし、上から手桶の水を掛けて消火する。火勢が強ければ火災家屋を引き倒し類焼を防ぐ。龍土水と呼ばれるポンプはあったが消火の役には余り立たず、火消の身体を冷やしてやるのが主な役割だった。
 このエキスパートが、大岡越前守の設置した第三の火消、町火消。


 町火消としての手当は僅かで、今でもある鳶職、建築現場の足場組みを初めとして、町の細々とした仕事をした。

 『新門辰五郎』でも、対立する会津中間が呼んでいるように“溝っさらい”というのが悪口の定番。溝の清掃、井戸替えの差配、また祭りと言えば出番である。
 名作舞踊『お祭り』の主人公は、粋な鳶の頭。与力、相撲と共に江戸の三男と呼ばれた。
 “を”組の頭取新門辰五郎とよく混同されるめ組の辰五郎は、相撲取りとの喧嘩で『め組の喧嘩』などの芝居になっている。
 また『五人男』の浜松屋など、大店の揉め事となれば引っ張り出されるのも鳶の頭。
 

 血の気が多くて見栄っ張り、一介のならず者となってもおかしくないが、それがここで火を喰止めると纏を持って突っ立ったら死んでもその場を動かない。
 加賀の大名火消は長蛇の手桶リレーを演じて往来を混乱させた廉で罰せられているが、命がけの仕事をするものたちには見栄や意気張りは付物と見える。


 半鐘を盗む輩には薬にしたくてもない心意気。ダイエットばかりはよく流行るが、本当の痩せ我慢は遠くなりにけりのようである。


仲間紋 

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千両みかん



噺の『千両みかん』は、夏のさなか若旦那が患いついたところから始まる。

物思いに沈んでホーッと溜息をつくところは、恋煩いの兆候だが、相手は蜜柑。やっと聞き出した番頭、安請け合いしたものの、蜜柑は冬のもの。
足を棒にして八百屋を回った挙句、神田多町の果物問屋万惣が駄目元で囲っている(保存している)蜜柑を調べてもらうと山のような中から一個だけまともなものが見つかった。値千両。大店のこと、若旦那の命に千両は安いと大旦那。
十袋あった蜜柑を七袋食べて人心地ついた若旦那、後は両親たちにと番頭に託す。預かった三袋が、三百両の計算。暖簾分けで貰えるのは数十両がいいところ。
番頭、蜜柑三袋持って逐電。
 

 現在この噺を掛ける場合は、今では旬というものもなくなったと枕に振る。今や蜜柑は一年中あるからである。
かにかくに野菜も果物も何時でも手に入り、全体夏の野菜だか冬の果物なんだか、おいそれと本来の旬が解らない。


 三月半ばから巡演に出る『お登勢』(船山馨原作・ジェームス三木脚色)には、柿が出てくる。これがこの時期には手に入らない。

演出部の若手が、『千両みかん』の番頭さんよろしく、デパートや果物店を何軒も回った。一番親身になってくれたのは伊勢丹だったそうだが、二月半ばまでがギリギリのリミットだそうな。

揚子江原産の柿は幕末明治に日本から欧米にもたらされ、アジア以外の温暖地域でも世界の一割弱が生産されている。豪州辺りから輸入すればあるにはあるのだそうだが一寸難しい。高価な冷凍ものはあるが解凍してもゼリーのようなものになってしまう。


林檎か梨かと案問するうち、バナナに白羽の矢が立った。
バナナ商業輸入されたのは1903(明治36)年台湾からだが、16世紀にルイス・フロイスが信長に献上した記録があるらしい。
江戸末期には出島では見られたというから、明治初年に政府要人の家にあっても可笑しくない。“ハイカラ”でもある。

旬は愚か、冬までが消えてしまいそうな今の日本にまだこんな難題が残っていたのは却って何やら嬉しい話だった。
 といって、噺のほうは「柿三切れ持って…」と言うわけにもいくまいが。

P5090007.jpg

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どんどん焼け


 “七三でマトイをトーンとついたとたんに、ツーンときてしまった。”
“ああ、「板」の上で芝居をするのも、この一瞬で、もうおしまいなんだ……!”

(『南の島に雪が降る』昭和三十六年刊 引用は旺文社文庫版によった)
四十八組の纏


 昭和十八年十月八日、大阪道頓堀中座の楽屋。切り狂言『新門辰五郎』の着付けに掛かろうとしていた市川延司は、二日後東京での入営命令を受け取った。

 幕末動乱の京都、木遣りを歌って八坂神社を守るため火事場に繰り出す辰五郎配下の山谷堀の彦造を名残に出征したのは、後の加東大介氏である。  



 京都の街は古(いにしえ)のままという錯覚をついつい抱くが、幕末に大火に見舞われている。北は中立売通りから南は七条、東は河原町から西は東堀川に至る800町余りというから主な市街は総なめにされたことになる。


 幕末から維新にいたる勢力地図は複雑怪奇。その暗闘が京都の街を舞台に繰り広げられていた。

 やがて実現する明治新政府は、薩長―薩摩と長州―の二大雄藩を中心とするが、幕末の彼らは奇々怪々な関わりを織り成している。


 天皇親政を実現しようとする長州と公家たちの勢力拡大を恐れた薩摩は、同じ“公武合体派”の会津と組んで長州追い落としを図る。これが文久三(1863)年の8.18政変。
 長州は一転勢力を失い、“尊皇攘夷派”の志士たちは新撰組に狩り立てられた。

 翌元治元(1864)年七月十九日、禁門の変が起こった。蛤御門の変とも呼ばれる長州の反乱は、京都御所の禁門=蛤御門で会津、薩摩との激戦がなされた為こう呼ばれる。
 禁門は御所の西に位置する。その名の通り開かずの門であったが宝永の火災で初めて開いたので、焼かれて口を開くというところからハマグリ御門と呼ばれるようになった。

 禁門の変で敗退した長州だったが、幕府も長州を滅ぼす決定打を出せぬうち、翌々慶応二(1866)年には、坂本龍馬の仲立ちによって薩長同盟が成立。
 慶応三年には大政奉還、王政復古の大号令と目まぐるしく政局は変わり、翌慶応四年、明治元年と元号が変わる1868年の一月には薩長ら官軍が旧幕府の賊軍を掃討する戊辰戦争が勃発する。


 この禁門の変の際、鷹司家や長州藩邸を火元に京の街を総なめにした元治の火災は、“どんどん焼け”と呼ばれる。
 見る間にどんどん焼けて行ったということかと思っていたら、“どんどん”は、大砲の音のオノマトペ。砲声と共に始まった火事だからどんどん焼けということである。

 京では災難の呼称も何やら雅びである。

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三月ひなの月



 三年前『オバケちゃん』の外交に伺った枚方の書店で、文庫として出たばかりの『木かげの家の小人たち』を手にとって驚いた。
 著者紹介の末尾に、いぬいとみこ女史が前年鬼籍に入ったことが記されていた。
 吉野源三郎氏の訃報に際して、世の中が暗い方に向かうとき素敵な方たちが皆逝ってしまう、と語ったのは誰だったろうか。



 いぬい女史の先達、石井桃子さんは、この十日に百歳を迎える。

 その記念展が、“ナルニア国”―銀座教文舘六階児童書専門フロア―で15日まで開催されている。
 これも知っている、これも読んだはず、と、記憶の彼方に閉ざされていた旧知の本たちが次々に現われる。

 実作者としては、『ノンちゃん雲に乗る』『山のトムさん』などの著名作。作者の名も知らずに出会っていた清水崑挿絵の『ふしぎなたいこ』とも再会した。
 海外児童書の翻訳活動は近年も絶えずに続いているが、うさこちゃん(ミッフィーではなく)シリーズ、ピーター・ラビット、『ちいさなおうち』……あれも、これも石井先生の紹介だったのかと、その旺盛な仕事ぶりに瞠目する。

 
 自宅を開放したかつら文庫は、母と子の読書運動の一拠点となった。
 文庫開設のころに、いぬいとみこ『木かげの家の小人たち』も上梓されている。同じころもう一つの小人譚を書いたのが佐藤さとる氏。『だれも知らない小さな国』の作者が80を越えて出版した新たなる長編ファンタジーが並んでいたのも嬉しい発見だった。
 素敵な方たちにはまだまだ活躍していただきたい。

 『くまのプーさん』『プー横丁に建った家』の翻訳は、1940年、42年にそれぞれ出版されている。女史を翻訳の仕事に導いた運命の書となった。

 戦争反対を表明して文芸春秋社を去った1933年の聖誕祭前夜、作家犬養健の家で出会った一冊が『プー横丁』。
 犬養家の道子(のち作家)らに訳し語り聞かせたその本の正編に巡り会ったのは、ここ教文舘。横文字の本を持てなくなる前に、と懸命に訳したという。

 41年末、日本はプーの故国イギリスと交戦状態に入っている。

ナルニア国のある教文舘一階

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老舗の春―垣根を越えて


 三月、東山動植物園は古希を迎える。傘寿の賀に完成を目指す、その再生プランが先ごろ纏まった。 


 逸早く無柵放養式展示を取り入れた“東洋一の動物園”も、いま話題に上ることは少ない。ハーゲンベック無柵式発祥より今年は丁度一世紀。

 本邦初のコアラ公開、四十年続く小学生のサマー・スクールなど進取の試みを重ねてきた老兵、まだまだこれからである。改築計画ではない22世紀を睨んだ再生計画を、と意気は高い。
 サマー・スクール第八期生としては大いに声援を送りたいところである。


 再生のキー・ワードは、“環境”と“大交流”。

 人と自然・森と園・見るものと見られるもの・実績と課題・市民と企業、行政・動物と植物。あらゆる垣根を払っての再生計画。
 異種動物雑居房は流行りだが、意識的な動植物雑居房はまだないといっていい。それが出来るのは本格的な動植物園を隣接している東山だけかもしれない。


 そして22世紀へ“生命をつなぐ”という新たなる使命の確認。
 折しも昨年末にカエル・ツボカビ症が日本上陸、多くの両生類の絶滅を防ぐ為には動物園水族館を箱舟として取敢えず避難させることが急がれている。


 570種類を擁し、敷地ともに国内最大規模の動物園。だが、この20年間で年間入場者数は半減したという。

 再生プランに添付された入場者グラフのはじめ300万人台を維持していた年は、私が劇団に入ったころ。
 吉祥寺の南口にあったお店の大将が、酔ってエンドレスの駄目出しをはじめた先輩の横でポツリと言って呉れた。
「名古屋の人は粘り強いから大丈夫だ」

 十年計画は今始まったばかり。

ハーゲンベック型無柵放養形式ライオン舎

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