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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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温めますか?


 人を内側から焼いてしまう“殺人光線”の話からその日の授業は始まった。

 子供の頃読んだ空想科学小説に殺人光線を使うロボットが出てきたと、小二の担任S先生は話し始めた。それが現実に出来た。電子レンジという調理器だという。その後の授業にどう話が繋がって行ったかは記憶にない。

 中長期の劇場公演では、冷蔵庫と共に電子レンジは、必需品。簡単な調理も出来るので、野菜不足を補える。

 味噌汁を作りにいったら、弁当が回っていた。前進座創立から所縁深い方が全員に差し入れてくださったものだが、九分割された桝目に煮物、焼き物などが並び、炊込みの結び、めはり寿司ら主食が三つの枡を埋める。ひと枡は酢の物。私の感覚ではこの弁当は“チン”しない。

 物心ついたころからコンビニがあった世代には、“弁当=温めます”なのだろうか。ほか弁というジャンルも身近にある。
 コンビにでも無差別に温めない部分加熱の弁当が開発されたこともあったが、すぐに見掛けなくなったのは、そんなデリケートさを利用者は求めていなかったということか。


 弁当温め文化は、コンビニエンス・ストアに始まったことではない。幼稚園の日々、冬になるとハンカチに包んだアルマイトの弁当箱を保温庫のある部屋に預けに行った記憶は私にもある。母の世代も教室のダルマストーブの周りに設えられた棚に弁当箱を置いたという。
 が、それはストーブ一つの暖房しかなかった真冬の教室での暖の取りよう。
 冷めても美味しく作られているのが、本来の弁当で、この弁当は正にその手のものの筈。


 『勝海舟』『新撰組始末記』の作者、子母澤寛氏に『味覚極楽』という食に関する聞き書き随想がある。
 増上寺の大僧正が、ご飯の味を知るには“多少こごっている位の冷や飯に水をかけて”食べることと語っており、寛氏自ら追実験して納得している。
 もっともこれ、栄養分を削り捨ててしまった精白米ではそうも行くまいが。

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“返り初日”



 江戸の昔、役者は一匹二匹と数えられたと言うが、役者も人の子である。
 病気にも罹れば怪我も負う。生身の人間が日々上がる舞台は何が起こるかわからない修羅場。

 まぁそれが他の役を代われる役者にとっては好機ともなるわけである。その可能性があるときには自分の役だけに感けてはいられない。
 今回三幕全てに出ている私にはその目はなかったからさして他の役を観察もしていなかった。初役三つ、その場に居るのが精一杯でもあった。



 9年ぶり十日間だけの『さぶ』、あと三日という時になって、出ずっぱりの栄二役が舞台上で怪我をした。
 事故は一幕の切れだったが、油汗を流しながら二幕三幕を演じきった。医者によれば呼吸をするだけで激痛が走る状況だったという。

 初代栄二、十九年ぶりの登板と相成った。体制を整えて深夜までの稽古の翌日の二ステージ。今公演中最も反応のいい客席だったこともあり、無事『さぶ』をご見物に伝えることが出来た。
 周りの役者も発見、想うところ数々で、新鮮な初日だった。

大道具さんも居ない深夜、舞台も回せないので裏飾りの“すみよし”の場は、ホリゾント(壁)に向かって稽古する。

 
 二日目芝居という言葉がある。
 初日の緊張が解け、ポカが出やすい、という程の意味だがかつてはジンクスのように語られていた。
 この言葉を知ったばかりの頃は、責任の重い役もなかったし「二日目だからね」なんて訳知り顔で同期と話したりもしていたけれど、“兜の緒を締めよ”ということなのだなと思う。
 
 初めてご見物の前で演じる初日は誰しも緊張する。思わぬミスや計算違いが出たとしても、この締まった舞台は見ていても面白い。
 ご見物の反応に見当がつく二日目はともすると雑念が入り兼ねないという戒めだったのだろう。
 一週間前の“二日目”も自分を戒めつつ、しかし日々の舞台に慣れはない。ご見物は毎回初日なのだ。

 さて返り二日目。


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江戸の大発明



 巡演の際は大抵前進座劇場で舞台稽古をしてから荷物を積み込む。一度本番と同じことをやっているから芝居に必要なものを忘れることはまずない。
 が、大劇場公演の舞台稽古は、扮装しない惣浚いをやっただけで現地に行くから、いざ舞台稽古となって、あれがない、ということも有り得る。

 荷物を開けたら、羽二重がない。鬘の下に装着するアイテムがハブタエ(ハブタイと呼ぶ人もいる)。
 
 今回使う羽二重を確認した記憶はあるのだが、鬘合せの後座のロッカーに置いて来てしまったようだ。幸い原材料の絹布と黒木綿はドンゴロスに入っていたので、急遽四枚の羽二重を作ることと相成った。
 月代(さかやき)を剃った頭の場合、半羽二重をして丸羽二重をする。三役あるから半ハブ一枚と丸ハブ三枚が必要なわけである。別の役でも羽二重を回せる(兼用出来る)場合もあるから、一本の芝居で必要となるこれは最大限の数だろう。

 制作方法は、半ハブで5箇所、丸ハブで4箇所、都合17箇所を縫い合わせる。本体の絹布に“手”と呼ばれる細長い黒木綿を付けて行く。
縫製完了

 布地の鬢付け油を馴染ませ、砥の粉をかける。
鬢付油塗布後

乾いたら、絹布の縁と手の端に鬢付け油を塗りつける。これは装着する為の“糊”である。頭につけて月代と地肌の色を着けて完成である。
完成


 これを上手く着ければ剃りあげた頭に見える。額際の処理に多少の違いはあれ、映像の世界でもこの羽二重が使われている。特殊メイクがいくら発達しても江戸以来の羽二重を超える方法は出てこないようだ。

 羽二重は消耗品。よく馴染んできたなと思っていると装着途中に突然裂けたりすることもある。暇を見て予備を作っておくが、一度に四つも作ることはもう生涯ないだろう。鬢付けを塗りつけたり着色したりは、指先に力の要る作業。二つ作ったら指が硬直してしまった。
 というわけで、今回の羽二重は全て新品。取り組むのも全て初役、舞台装置も仕立て下ろしだから、重ねて新鮮な気分ではある。




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せんと周五郎DAY



 十六日から大阪日本橋の国立文楽劇場で上演する劇団前進座公演『さぶ』のネタバレを多数含んでいます。







孤独なヤマアラシ

                              
 今日二月十四日は、曲軒・山本周五郎氏の命日。没後40年に当たる。

 人は敵意や憎悪だけでは生きられない、ということを、読者とともにたしかめてゆきたいと思う。
 死の三年前、週刊朝日への連載開始に当たって、作者はそう記している。


 前進座の『さぶ』は凄いというのは、広島市民劇場にいる頃すでに伝説的に囁かれていた。

 入座二年目の暮れ先代国太郎の急病による演目変更で、初演メンバー決定版的なものが急遽上演された。別の芝居の巡演から戻った日、前進座劇場は一杯で、お仕舞まで後ろに立ってみた。前進座『さぶ』は、数ある劇化映像化の中でも人足寄場の場面のウェイトの重さが他にない特徴。女衒の六、赤鬼など脇を固める存在感は圧倒的だった。
 が、三幕目に入ってからは正直言って付いていけなかった。寄場で成長し出てきた筈の栄二は相変わらず鼻持ちならないし、大詰めのおすえには「何だこの女は」と反感以外の何物も感じなかった。世代交代したとき、身も世もなく泣き崩れたおすえに初めて納得がいった。
 その後出演したときには、自分の役に付いて行くだけが精一杯だった。 
 ご見物は涙で絶賛して下さるし、劇団員も「やっぱりさぶは良い」と、何度も観た芝居の舞台稽古に涙を流す。


 世代交代して現さぶと栄二が誕生したのが88年。その年と翌年、島蔵、松造、万吉で参加、九年後の二十世紀最終公演に女衒の六。それ以来九年ぶりの上演。初役三つに取り組んでみると発見の数々。

 出番が終わって、件の三幕目を見ていると、「ヤマアラシのジレンマ」ではないが、“人とは傷つけあうもの”という事が強く迫ってくる。

 今回は三十年間の上演でいろいろ増えた入れ事、決まり事を忠実に再現する集大成。長年この芝居に出て来た役者たちにはそれぞれ想い入れがあって、ここではこうやっていた、いやこうやったこともある、と喧しい。万吉、金太ら大抜擢組は稽古が終わるとぐったりしながらも、懸命に話し合っている。
 プロローグ部分を子役さんで行く初の試み、新配役たちの挑戦は『さぶ』に相応しい清新さを漂わせる。

 糸井コピー塾風に惹句を作るとしたら、
幻の名作、ちょっとリニューアル  
     くらいのところでしょうか。


両替商綿文の暖簾は初演の後行方不明になり、今回ひょっこり出てきたという

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森戸道路で会いましょう



 その年の広大入学式場は、白島の郵便貯金ホール。式に続いて、各サークルのオリエンテーションが始まった。
 次々登場するサークル紹介は、文科系、体育会系を問わず、「森戸道路で会いましょう」と結んで壇を去った。


 広島大学の本部は当時千田町にあった。再生を象徴する六本のフェニックスが聳える正門から、被爆した理学部(広大の前身の一つである広島文理科大学)の煉瓦造りの校舎にまっすぐ向かうメインストリートが、「森戸道路」と呼ばれていた。

 森戸辰男という初代学長に由来するくらいは知っていたと思うが、どんな人だったのかさして興味を抱かなかったように思う。事実、まだ広大にいた84年5月28日、96歳で森戸辰男氏は鬼籍に入っているのだが、その報を聞いた印象がない。


 森戸の名が刻まれたのは道路だけではない。1920(大正9)年一月、東大経済学部助教授として学部機関紙に発表した「クロポトキンの社会思想の研究」が新聞紙法によって有罪判決、大学を追われた。治安維持法以前の学問言論弾圧、「森戸事件」である。

 1945(昭和20)年、戦後三月足らずで始まった高野岩三郎を中心とする七人による「憲法研究会」に参加。主権在民象徴的天皇制の草案を作成。同年、日本社会党創立に参加、衆院に当選し文部大臣にも就いた。

 政界を退いた49年に発足した広島大学の学長を、森戸辰男氏は13年間勤めている。

 蛸足大学だった広大キャンパスは東広島市に統合移転したが、東千田町で路面電車を降りれば、今もフェニックスが迎えてくれ、森戸事件の道が、被爆煉瓦の学び舎へと続いている。


 メイン・キャンパスが移った今、「森戸道路で会いましょう」というフレーズはもうないのだろうが、あの頃は毎年繰り返されていたのだろう。どうも『有楽町で会いましょう』という歌謡曲が流行った頃からこのフレーズは繰り返されていたのではあるまいか、と最近疑っている。サークルなど意外に保守的なものだ。
 本当にその頃からの習慣なのか、移転まで繰り返されていたのかは、先後輩方のご教示を待ちたい。



東千田キャンパス正門:統合移転完了寸前の93年9月

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金さんと銕つぁんⅡ

 幕末の火消、新門辰五郎もこの寄場の住人であったことがある。

 火事場の消し口争いによる火消同士の喧嘩は茶飯事。特に大名火消と町火消しは犬猿の仲。大名火消との喧嘩の罪を問われた辰五郎、一旦は江戸払いで済んだが、江戸の本宅、妾宅に夜な夜な舞い戻った。再び捕えられ今度は拷問に掛けられたが、頑として口を割らない。
人足寄場に起居することと相成った。


 隅田川河口の石川島と佃島の中間という立地条件から、津波などの水害は度々であった。また、江戸の華、火災からも無縁ではなく、全焼を含めて六度の記録がある。こうした際には大牢の例に倣って人足の一時解き放ちが行われた。

 1846(弘化3)年、記録に残る四度目の火災が人足寄場を見舞った。小石川から出て下町をことごとく焼いた火の手が迫り、解き放ちが行われたが、辰五郎は寄場に残って防火に努めた。小金井の侠客小金井小次郎がこれに力を添えた。
 小次郎は子分三千人と言うから(白髪三千丈の眉唾はあるものの)、辰五郎と並ぶ大侠客ということになる。
 遠山奉行は、この功により二人の釈放を命じた。
 
 金さん、このころは本所二ツ目の屋敷(現江東区菊川三丁目十六番地)に居を構えていた。これが遊蕩時代の長谷川平蔵が住んだ屋敷であったという。

 人足たちが命を盾に寄場を守ったのはこのときだけではない。1856(安政3)年八月の大津波の解き放ちの際、七十人ほどが踏みとどまって寄場を守った。松本清張『無宿人別帳』「海嘯」はこの事件を下敷きにしている。
 『さぶ』は、1828(文政11)年を擬しているが、資料を精査、改変する山本周五郎氏のこと、この作中にも人足たちが嵐から寄場を守るエピソードが重要な場面として取り込まれている。
 
 「人間てやつはおかしなもんだ」「まったくおかしなもんだ、わけがわからねえ」(『さぶ』九の一)


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金さんと銕つぁんⅠ



 鷗外と漱石、明治の二大文豪が、十年の時を隔てて千駄木の同じ借家に住んだ事は有名な話。
 が、遠山の金さんと本所の銕(てつ)時代の長谷川平蔵もまた、同じ家に住んだことは余り知られていない。
 
 火付盗賊改方長官長谷川平蔵は又、更正施設・人足寄場の創始者でもある。時の老中松平定信に建議した施設が石川島に成ったのは1790(寛政2)年のこと。
無宿人対策施設には90年前の安永の無宿養育所という先例があるのだが、只で養ってやるのに逃げ出す筈がないと高を括ってみんな逃げられてしまった。
 
 逃亡不可能と思わせることが施設存続の絶対条件と考えた平蔵は逃亡企画者はその場で死刑という法に加えて、様々の周到な手を打った。それでも寄場の記録を見ると逃亡を企てるものは後を絶たない。

 が、鬼平、決して強面ばかりではない。人足の耳にピアスをさせて目印にしようという案には断固反対、男女とも通常の髪型をさせ、二月十九日の寄場創立記念日には赤飯が出た。
 正月は勿論、土用の丑の日には泥鰌汁が振舞われるなど、江戸町人の年中行事は厳密に守られた。寄場稲荷も創立とほぼ時を同じうして勧請されている。

 二年後寄せ場取り扱いを免ぜられ火盗改に専心した平蔵はさらに三年後五十にして頓死。上司松平定信も寄場創立の三年後に失脚したが、平蔵の心は生き続けた。
 

 女の匂いがして堪らないから何とかしてくれと人足たちが訴えるので、調べたところ、近所の寺の庭に咲いた木犀の香りであった。役人たちは、住職に訳を話し、金を出し合って買った松の木と植え替えてもらったという。
 北風よりも太陽の趣きの強い施設であったことが伺える。
 


 半世紀の後、町奉行遠山左衛門尉景元の建議により非人寄場が新設され、時の老中水野忠邦は全国に寄場建設を企画した。
 失脚により多くは未完成に終わったというが、これが近代的な監獄制度への橋渡しとなったと評価されている。
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ごめんちゃい



 驚いた。昨日生恵幸子師匠が亡くなったと言う。
まだ生きていらしたのだ。
 相方の人生幸朗師匠が鬼籍に入ったのは遥か昔。

 ニュースによると、十六歳違いの夫婦でしかも幸子師匠の方が10年近く長生きされたので、幸朗師匠の訃報から二十五年、八十三歳での長逝。
 矯正施設などへの慰問についても航路をつけた先駆者である旨、西川きよし師匠が語っておられた。
 

 幼少の頃に親しんだ師匠連は、夢路いとし喜味こいし、宮城東のWけんじ、若井はんじけんじ、獅子てんや瀬戸わんや、青空千夜一夜そしてずっとマイナーだが幼な心に好きだったのは晴乃チックタック 

 小学校三年生毎月の学級会に二度ほど漫才を出した。ホンは私である。TVに喰いついて観た漫才師匠連のエッセンスをふんだんに頂いた台本だった筈である。もっとも二度目の時はよろしくなかった。
 この前の方が面白かった、と言いに来た女の子がいたが、その筈。ドリフのフレーズを使った部分を書いた当人の自分が嫌になってその場で変えてしまったのだから。高座の後にも何も言い訳しなかったが、相方の近藤君はさぞ面喰らった事だろう。
 
 幸朗幸子師匠のぼやき漫才は、当時の歌謡曲を肴にこき下ろすと言うもの。“責任者出てこーい”というフレーズはよく憶えているが、御終いのフレーズが“ご免ちゃい”だったというのは今日Wikipediaを見て思い出した(これは、件の自作漫才で使った筈。「惜しい、時間だ」という〆のフレーズはチック・タック師匠と記憶している)。

 幸子師匠の合いの手は当時少々煩わしかったが、今思えば間を持たせ、また聞けば時間調整の役割も果たしていたらしい。ぼやき漫才というジャンルについても、このコンビの専売特許かと思っていたら、師匠から受け継いだものだそうな。似た系列と言われるものはあるが、正面からぼやき漫才を名乗るものは現在ない。

 横山やすし師匠生き写しで漫才を演じる大平サブロー(旧:太平サブロー)師匠のレパートリーには、いとし師匠と共に、人生の師匠があるそうな。この機会に是非見せて頂きたいもの。今の世の中、ぼやく材料には事欠かないだろう。

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