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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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だって、私は・・・



 “佐野洋子”という名前に初めて出会ったのは何時だったろう。
 谷川俊太郎『女に』という詩集が出て、詩人のパートナーとしての女史を意識したよりまえから知ってはいたはず。

 その後、エッセイや谷川氏との共著などは読んだが、絵本のほうはご無沙汰だった。

 某デパートで一週間ばかり行われた佐野洋子展を見る機会を得た。

 誰でも知っている『100万回生きたねこ』『おじさんのかさ』は勿論、知らずにいた佐野ワールドがひろがる。 

 癇癪を起こして切ってしまった木の掛替えなさに気づくひげの男『おぼえていろよおおきな木』
 99歳の誕生日にケーキの蝋燭が5本しかなかったのをきっかけに、しなやかに可能性を広げるおばあちゃん『だってだってのおばあさん』
 大好きな鯖の夕食を思い浮かべて歩いていると、空飛ぶ鯖の大群に襲われてしまう猫『おれは猫だぜ』
 猫たちに買い被られて、大好きな昼寝も出来ずに颯爽と跳び続け、疲れたとさめざめと泣く金色のライオン『空とぶライオン』

 出てくるものたちは、愚かだから愛おしい。 
 物語に意味や教訓を付会するのもこれまた愚かなことだけど、こだわりや思い込みを捨てられた時に開ける世界が―それは生易しい世界とは限らないけれど―読者を包み込む。
 
 印刷とは違う原画の魅力も大きい。『100万回―』が、カラー写真修正用インクで描かれている事を初めて知った。絵の一部が塗りつぶされていたり、鋏で切り取られ移動していたり。作者の修正跡を発見するのも楽しい。


 猫の少年と暮らしているおばあさんは、少年に魚とりに誘われても、「だって私は98だもの」と断っている。
 99の誕生日、バースディケーキ用の蝋燭の袋が途中で破れて、お使いから帰った少年の袋には五本だけが残っていた。
 五本の蝋燭を立ててお祝いをした翌日、魚とりに誘われたおばあさんは、「だって、私は・・・」と言いかけて、昨日五歳の誕生日を祝ったことを思い出す。
 五歳なら魚とりに行ってもいい。おばあさんには素晴らしい一日がまっていた。
 紛失したのか途中二頁ほど抜けているが、原画で出会う贅沢さは格別。

 90年ぶりに軽々と川を跳び越すおばあさんのふわふわと素敵な絵。  
 今回初めて出会ったこの絵本を買って帰ろうかと思ったが、印刷されたものは原画の風合いとはずいぶん違う。
 他の作品では、そんなに違和感を感じない。印刷では出にくいニュアンスと出会ってしまったのだろうか。
 いつか原画の風合いに近いものが出版されるまで、このお話は記憶の中から反芻することにしよう。
猫とおばあさん

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眼福

 
 漱石の作品に時々“勧工場”というのが出てくる。当て字の多い夏目先生のこと、観工場などとも書いているが、日用雑貨などを陳列した複合商店。勧業博覧会の流れを受けて明治11年頃生まれた。


 コンクリート打ちっぱなしの店舗にダンボールごと商品が並べてあるディスカウントショップ様の絵がなんとなく浮かんでいたものだったが、殺風景さにおいては、さまで間違ってはいないようだ。
 江戸の店舗は客の注文に応じて奥から商品を出してくる対面販売。この陳列というやり方が新しかったものらしい。
 
 1905年デパートメントストア宣言を発して越後屋呉服店から転身した日本橋三越。勧工場は、このデパートにとってかわられることになる。

 1927年、関東大震災後の再建に本店東館の六七階を貫いて、これも本邦初のデパート内劇場三越ホールが開場した。講演会と演芸のための劇場だったが、多くの劇場が消失した戦後の演劇界を支えることになる。
 歌舞伎座が再建するまでの五年間の“三越歌舞伎”は、現在の大御所連の父の世代を育て、メセナのない時代に新劇団の力強い味方だった。

 三越劇場のあるフロアは、美術品売り場。というよりは一寸した美術館。いやいや、美術館では、横山大観や奥村土牛をガラスも通さずにこんな間近には見られない。
 何百万するロダンや楽茶碗の絶品も親しく見られる。


 ご多聞に漏れず廉価安物買い。普段縁の薄いデパートだが、湯呑みや茶碗などもブラブラと見て歩くと、なるほど物は実用ばかりではない。こんなのでお茶を飲むのがゆとりというものか知らんと思う。
 人寄せがデパートの身上、『ウェストサイドストーリー』のジョージ・チャキリスが宝石デザイナーとして来店し、先週は鳥取、今週は北海道の物産が並ぶ。

 “眼福”という、これまた普段縁のない言葉を、思い出した。
日本橋の袂のデパートメントストア

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千代の里Ⅱ


 今年の大河ドラマ『功名が辻』は、いよいよ関ヶ原篇。

 名馬購入の内助の功と、関ヶ原での家康への掛川城提供とが、人口に膾炙した山内一豊の二大イベント。といったら関係者に怒られそうだが、まぁ一般の知識はそんなもの。
 昨年暑い盛りに仕事で伺った郡上八幡が、一豊の妻千代の生地という話は前に書いたが、あっという間に一年余りが過ぎてドラマは早や終盤。
 
 
 郡上城にご案内くださった顕彰会の川上朝史さんから関係の記事をご教示いただいた。PHSの不調でネットにつなげなくなる直前の話で、それからもう二月近くが経ってしまった。
 

 『週刊朝日』に「週刊司馬遼太郎」という連載が続いている。
 司馬作品の成り立ちや影響などなど周辺を描くこの連載に、八九月、『功名が辻』が採り上げられた。

 その一回に“一豊公&千代様サミット”に連なる市町村が描かれる。サミットを立ち上げたのは、掛川城再建を実現した前掛川市長。
掛川市の生涯学習都市構想に感動して、建設費の半額を負担してくれた現代版の千代さんも現われて、木造による掛川城再現は93年に成った。
 全国に再建された城は多いが、中でも掛川城は新顔。毎秋静岡を訪れている頃、私も普請中の姿を見ている。正直、当時あまりいい評判は聞かなかった。
 翌年その掛川で、第一回サミットが行われた。当時の9都市から12都市に増えて現在も続いているサミットには、郡上と近江、両方の里が仲良く参加している。このサミットで確認された目標の一つが『功名が辻』の大河ドラマ化だった。 

 
 千代郡上出身説は、当時の岐阜城館長が、32年前初めて世に問うたという。翌73年に大河ドラマ第11作『国盗り物語』を控えた歳のことである。同じ司馬作品の前半の主人公は岐阜城(稲葉山城)の主斉藤道三、後半を“岐阜”の名付け親信長が受け持つ。
 川上氏の父上が初代顕彰会長としてその説を推し進めてこられたが、郡上城の下に建つ夫婦の像の除幕を待たずに亡くなり、氏が二代会長として受継いだ。郡上は、大河ドラマには出てこない。が、一豊と千代の事跡を広めた意義は大きいという。

 ドラマはやがて大団円を迎えるが、地域社会活性化を目指すサミット各都市の志と活動とは続く。


掛川築城中

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