外から役者の世界に入ると、新規に覚えなければならないことが津波のように押し寄せた。
紐の結び方もその一つ。舞台を仕込むにも、荷造りをするにも様々な結び方が必要になる。
物を縛るばかりではない。着物を着るとは、取りも直さず、沢山の紐を結ぶこと。
角帯の貝の口、一文字、袴の紐や三尺を結ぶハコ結び、辺りがとりあえず必要になる。
トラックの荷物を固定するナンキン結びや、舞台のバトンに雪籠や振り竹を結ぶテッカン結びも、新入生の必須科目。その他“世の中にこれほど結び方があったか”と驚くほど複雑な方法には事欠かないが、一番使うのは矢張り基本の蝶結び。子供でも知っている結び方だが、簡単なものほど難しい。
「‘おっ立て’だよ」と結んだものを指摘されても最初は意味が分らなかった。
雌紐をくぐって上に出た雄紐を、そのまま上から輪にした雌紐にかぶせて結べば、普通の蝶結び。雄紐を下にもっていって被せれば蝶の羽根が紐と垂直になる‘おっ立て結び’。
何かの拍子に靴の紐などが立て結びになってしまって直らない経験はあったが、無意識に反対側に回していたわけである。観察力がなかったと言えばそれまで。蝶結びに二種類あるなどと思ってもみなかった。
手甲脚絆の紐や太刀を結んだ紐をおっ立てに結んでいたら不恰好。だが、このおっ立て、駄目な結び方というわけではない。おっ立てにはおっ立ての役割がある。
舞台は、その日その日の花。公演が済めば片付けて次の公演地に飛ぶ。
建築関係の方が舞台の家を見て「こんなんじゃすぐ壊れちゃう」と言ったが、芝居のうちに一生住む訳ではない。必要以上に頑丈に作ったら、バラすことを考えろと怒られるのが舞台の建物であり、幕である。
舞台の背景は、ドロップと呼ばれる幕に描かれる。ドロップには乳(チィ)と呼ばれる紐が付いていて、舞台上空のバトン―鉄棒―にそれを結ぶ。
この時は片方だけの花結び“カタハナ”に結ぶ。結ぶにも解くにも手間がかからない。
一方、付け外しをほとんどしない吊りっ放しの会館の黒幕などは、両花、それも結びの羽根がバトンと平行になるおっ立てに結ぶ。
屋台の土台は蝶番で繋げたり、ボルトを使ったりするが、これも今回っている『佐倉義民伝』では紐で蝶結びにしている。
一夜の花のあちこちにいろいろな蝶が飛ぶ。
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