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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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猩々の惑星・征服



 『猿の惑星』の作者ブールがヴィシー政権の捕虜となり強制労働に従事した、と記述する資料もある。

 1940年、ナチス・ドイツとファシスト・イタリアとにほぼ占領された残りのフランスに‘ヴィシー政府’が誕生した。が、ブールは徹底抗戦する‘自由フランス軍’として戦っている。自国の傀儡政府の捕虜となった経歴は、戦争に対する彼の想いをより複雑にしたのではないだろうか。


 大戦後七年、ブールは『戦場にかける橋』で一躍文壇に登場した。邦題は相互理解と友情物語を期待させるが、原題は『クワイ河の橋』というに過ぎない。

 クワイ河に架かった橋は、河の両岸にいた同じ英国人―橋梁爆破工作班と架橋に携わった捕虜大佐―同士をさえ殺し合いに導いてしまった。

 タイ・ミャンマーを縦断するタイメン鉄道の架橋を巡る物語に描かれるのは徹頭徹尾愚行。美徳たるべき意志の力も、行動力も、戦争という大枠の中では愚行たらざるを得ない。
 論理的なニコルスン大佐もエキセントリックな斉藤大佐も大差なく、‘面子’というキー・ワードで括られる同じ存在に過ぎない。
 
 英国人捕虜たちからエテ公呼ばわりされる日本兵もゴリラに擬せられる朝鮮人軍属(現実のメクロン河永久橋架橋関連のBC級戦犯111名中彼らは33名を占め、中9名が死刑に処せられた)も、愚行を強要する枠組みの中にいる。



 映画版第四作『征服』は、知性を持った未来の猿の子シーザーが開放をもたらすクーデターの一篇。
 
 猿の伝説は、しゃべる猿の登場をこう伝えていた。奴隷として毎日人間から言われていた言葉を、彼は人間に浴びせかけた。その第一声は「NO」という服従拒絶の言葉だった、と。
 
シーザーは無論初めからしゃべれる猿。未来猿の子が歴史を変えるタイムパラドックスにより、伝説はこう変る。
 シーザーに率いられたクーデター猿たちが支配者人間を殺害しようとした時、第二の猿が言葉を得る。「NO」、それは復讐の連鎖を断ち切る言葉だった。


 映画はシーザーの演説でぶった切ったように終わる。翌年アメリカは、ヴェトナムから撤退した。


ボルネオオランウータン・いしかわ

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蚊帳の中の魂



 蚊帳が夏に欠かせない風物の座から転げ落ちたのは、団地が出来始めた頃なのだろうか。

 私も団地っ子だが、中津川の祖父の家でかろうじて蚊帳を経験している。目に涼しい萌黄色を見上げた記憶がかすかにある。
 が余りに小さいころの事、蚊帳の端をパタパタと振って蚊を遠ざけてから出入りする作法は、『巷談宵宮雨』の稽古のときに初めて知った。 強欲老人龍達が登場する宇野信夫氏の名作では、蚊帳が重要な役割を果たす。

 南北の『四谷怪談』では、浪人民谷伊右衛門がお岩夫人と赤子から蚊帳を剥いで質店に向かう。髪すきからお岩の死へと向かうドラマの幕開けである。
 この蚊帳の趣向は『四谷』の先行作にあたる『謎帯一寸徳兵衛』で既に使われていて、女房お梶の恨みを背負った蚊帳が芝居の後半を支配する。

 歌舞伎に登場する江戸の生活用品の数々は、日々日常から姿を消しつつある。『魚屋宗五郎』で、宗五郎が持つ手拭いも例外ではない。この手拭を手染めする職人さんがもう居ないのだという。現在使っているものを大事に使うしかなく、やがて本物は消えていく運命にある。
 
 現在、蚊帳の特殊な織り方を利用した肉厚布巾(ふきん)は、100円ショップにも並んでいる。
 手軽な電気蚊取り器や殺虫剤に追われて姿を消したものと思っていたら蚊帳そのものも、意外にも現代に生きていた。

 マンション用の蚊帳もあり、ムカデの害を対象にした蚊帳もある。海外のマラリア蔓延地域にも進出しているという。
 まぁ、21世紀の住環境が無機質な、小動物一匹いないものにならなかったのは、或る意味幸いなことなのかもしれない。

 予想外に元気な蚊帳だったが、現代の蚊帳は舞台では使えない。今や麻ではなく殆どが化学繊維、舞台の世話物の屋台(家の装置)には色が合わないのだ。たまに旧家から寄付されることもあるというが、基本的にはこれも昔から使っているものを手入れしつつ大事に使い続けるしかないという。

 人の怨念まで宿す、濃密な魂を持ったモノは、機械では作れないのかもしれない。

『団七内』の蚊帳

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薫 風



 幕が開いた。

 若葉繁る半蔵門前、国立大劇場の五月は、この月に創立記念日を迎える前進座の記念公演が恒例。七十五周年の今年は、南北『謎帯一寸徳兵衛』、黙阿弥『魚屋宗五郎』の二本立て。

 『魚屋宗五郎』は、『新皿屋敷月雨暈(しんさらやしき つきのあまがさ)』という本外題から判るとおり、殺された腰元が化けて出るという『番町皿屋敷』の換骨奪胎が一つの趣向。さらに「安達元右衛門(酒乱の役)を世話物でやりたい」という五代目菊五郎の要望を入れて、腰元お蔦の兄、宗五郎が禁酒を破って酔って行く様が大きな見処となっている。
 芝神明の祭りの只中で宗五郎らが悪人典蔵を捕える大詰めまで上演したこともあるが、近年では黙劇(だんまり)模様の弁天堂と宗五郎内の二場上演が前進座スタンダード。今回は残念ながら上演時間の関係で宗五郎内のみという変則となった。
 幕間に七十五周年記念口上を挟んだ通し狂言『一寸徳兵衛』の大切所作立ての後に、『新皿屋敷―片門前宗五郎内の場』を上演する。

 南北の方の主人公大島団七という男、手に掛けた上司の娘が惚れた芸者に似ているからと知らぬ顔で妻にしたものの、DVの限りを尽くし、果てはこれも手に掛けるという悪事をアッケラカンと済ましていく。筆舌に尽くしがたい男なのだが、このところのニュース番組に出てくる主役たちは、決して団七に引けをとらない。この無茶苦茶な男がいやに身近に見えてくる。

 三つの殺人が行われる南北物のあとで『宗五郎内』をみると、妹娘を失った家族の悲しみが客席にひしひしと押し寄せる。悲劇的場面ではあるが、失われた一つの生命に多くの人が想いを寄せることのやさしさが、暗さや怒りを超えて染み透る。一つの生命がこれだけ重いということを、123年前に黙阿弥翁の筆は図らずも描いてしまっていたのである。
 
 生命をいとおしむ家族の哀しみが、五月の風のように爽やかに薫る。

前進座版『宗五郎』酒樽・和紙の栓も独特

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新・猩々の惑星


 映画『猿の惑星』は第五部までの長大なものとなった。続編以降は原作を離れたオリジナル。第三部から舞台は人間が支配していた時代の地球に戻り、猿専制への歴史が描かれる。

 第一作の原作者ピエール・ブールは仏蘭西人。第二次大戦中マレー戦線で日本軍の捕虜になった経験が『戦場に掛ける橋』(1952)となり、この『猿の惑星』(1963)にもなったと説かれる。黄色人種の捕虜になるという生涯忘れえぬ屈辱的な経験が『猿の惑星』を生んだという説もあると聞いて、どんなものかと読んでみた。

 小説の飛行士が訪れた猿の惑星は、同じ人間文明の成れの果てではあったが、地球そのものではない。(しかし…というオチはあるのだが。)自由の女神を発見する映画版のラスト・シーンは映像メディアの特性に則した処理であった。
 知的猿たちが過去の地球に不時着する映画第三部は、第一作では使われなかった原作後半の変奏曲ともいえる。

 猿の惑星の正体を知る存在という映画版の深さを、原作のザイウスは持たない。オランウータン族は、ただただ頭の固い保守主義者、良いとこなしの役回りである。ブールは苦しい転戦の中でこの一族に出会ったのだろうか。当時社会を持たないとされていた彼らの風貌を、ブールはそう見たのかもしれない。



 一緒にこの惑星に降り立った一人を主人公は動物園で発見するが、恒星間飛行の発明者である彼は、“理性”を失って“本能”のままに生きていた。
 やがて主人公の目に、この惑星の猿の姿と地球の人間の姿とが二重映しに見え始める。文明とは何なのか。それがこの小説のひとつのテーマ。

 猿に囚われの身の主人公の心情、同じ人間の姿をしながら心の通じない猿の惑星の人間たちという存在、の描写に捕虜経験は生きているのだろうが、差別を助長するような浅いものではなかった。捕虜の屈辱を忘れ得なかったのが事実なら、その感情を押さえつけるだけの理性知性を兼ね備えた人で、ブールは、あったのではなかろうか。


 映画版第三作『新・猿の惑星』(原題『猿の惑星からの脱出』は意味深長)で人間支配時代の地球に漂着したチンパンジー夫妻はマスコミの寵児となる。地球の文物の感想を求められた夫コーネリアスは一間置いて答える。

 「実に人間的」

いしかわ動物園のチンパンジー

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