unputenpu

一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
このページのトップへ

何処へ

 ドラえもんは、昨年末生誕三十五年を迎えた。
 ムックなども刊行されたが、今、書店の詩歌コーナーに、『ドラえもん短歌』という縦長の青い本が並んでいる。昨年募集された短歌の優秀作を纏めたもの。

 ドラえもんと短歌とは奇妙な取り合わせ、と首をひねったが、ページを開くと笑みがこぼれ、身につまされ、目からうろこが落ちる。
 ドラえもんの作品世界を、またはドラえもんを借りて自分の住む現実世界を詠み込んだ93首。誕生から三分の一世紀、すでに市民権を得たドラえもんは強固な仮想現実。雪だるま型の猫の輪郭はだれの隣にも寄り添っている。


 簡易飛行装置タケコプターと双璧を成すドラえもん・アイテムが、瞬間移動機(器?)どこでもドア。
 どこでもいいやと思う人には使えないのが“どこでもドア”、と詠んだ歌がある。なるほど何処へでも行ける器械があっても、場所を決めるのは人。
 ドラえもんに頼りきりの優柔不断ののび太君と思っていたが、こうしたい、ああしたい、どこに行きたい、という欲求は人一倍持ち合わせていたということになる。

 後は自力でがんばるからあの人好みの顔にして、胸だけに利くスモール・ライトは?という望みは、現在の技術を持ってすればかなりの部分かなえられること。でも、のび太の容姿や能力を変えてしまうアイテムを、ドラえもんは出さなかった。あるいは、物語がそういう結果にはならないように描かれていた。

 その正当性とタイム・パラドックス論議はさておき、頼りないご先祖様の為に未来が悪い方に変わってしまうことを恐れた未来人セワシが先祖サポートに遣わしたのが、ドラえもん。
 理想と見えるドラえもんたちの未来世界は、現在私たちが進んでいる方向に本当にあるのだろうか。そんな一首もある。
ワープ

スポンサーサイト
このページのトップへ

給食の生まれた街を

 鶴岡市は、中田喜直氏が『雪の降る街を』作曲のイメージを得た街であり、『滝口入道』の高山樗牛生誕の地。間もなく封切られる『蝉しぐれ』をはじめとする藤沢周平の作品に登場する海坂藩のモデルとなった城下町でもある。

 四年ぶりに訪れた当地は来月周辺を合併して新しい市に生まれ変わるとのこと。羽黒山に連なる街道が貫く城下町は、杜の都。城址、藩校、教会から慶応義塾の生命科学研究所のキャンパスまで、江戸明治昭和平成の建造物が、木々と調和する。

 研究所の先を左、木々の生い茂る堂々たる構えは青龍山大督寺。ほぼ江戸時代を通じて当庄内藩を治めた酒井家の菩提寺である。
この門前に藤沢周平文学碑と並んで『学校給食発祥記念碑在所』と刻まれた石柱が立っている。山門をくぐると本堂に向かって左にその記念碑はある。明治二十二年、鶴岡の各宗寺院が協力して貧困家庭のための忠愛小学校がここに開設、浄財によって弁当を支給したのが学校給食の発祥であると碑は記す。昭和三十四年の秋、給食七十年の歴史を記念して碑は建てられている。

 私が小学校に入ったのは、ソフト麺導入の年。最人気のメニューはアルマイトの椀に盛られたカレーにビニール袋入りの麺を入れるカレー麺だった。主食は食パン二枚。
何紙というのか、これ以上薄くは出来ないという紙に、一月分の献立が印刷されて配られて、薄い真四角の“餅”に黄な粉の掛かった安倍川やカレー麺を心待ちにした。

 サラダには苦戦した。野菜が駄目な上に何やらピリピリとする半透明なものが掛かっている。それまでドレッシングという物を見たことがなかった。
教室に残された挙句、椀の中身を全部頬張って挨拶もそこそこに教室を出て、溝に捨てた。口の形の固形野菜がぽとりと落ちた。

 学校給食発祥から117年。成人病の若年化など子供を取り巻く食環境の変化を受けて、今春、栄養教諭という制度が導入されたという。
給食発祥の碑

このページのトップへ

恐竜のいる動物園

 東山動物園には他の園では見られないものが戦前から住んでいる。1938年というから開園の翌年。古代池と名付けられた池のほとりに立ち続ける恐竜たちは、以来67年、園の歴史を見続けてきた。

 科学図鑑でステゴザウルスに出会ったのと、東山動物園で三頭の恐竜に出会ったのとはどちらが先だったろうか。
当時はまだこの池にフラミンゴの群れが住んでいた。鴇色の群れに見惚れたのか、私が池に片足落っこちたのは、しばらく家での語り草だった。

 恐竜研究は日々進んでいるから或いは今では通用しない呼び名かもしれないが、当時の知識では三頭の名はブロントザウルス、ティラノサウルス、トリケラトプス。


 三頭が建つ前年の夏、大陸で盧溝橋事件が起った。人の世の戦争は、園の動物たちにも影を落とした。上野での猛獣抹殺指令は、銃後の人々の気を引き締める為とも伝えられるが、空襲と食糧難はその指令を危急のものにしていった。
 東山は、ライオンなどを絞殺、銃殺しながらもゾウを守りえた。園長以下の努力もさることながら、軍馬の糧秣を知らぬ顔で提供した獣医大尉のはからいがあったという。
抹殺指令をめぐってはいろいろの説もあるようだが、いずれにせよ、ヒトのはじめた戦争というものがなければ起らなかった悲劇。東山に1000近く居た生命は、戦争が終ったとき30に満たなかったという。

 空襲にも伊勢湾台風にも耐えた竜は、私の子供の頃すでに添え木に支え られていたと思う。いったいどういうコンセプトで彼らが産まれたのかは判らない。巨大な絶滅動物は、人と動物たちの歴史を見守っている。
P7300037.jpg

このページのトップへ

南の鳥

 昔は“北極”熊とペンギンが仲良く氷山に戯れる絵が見受けられた。が、ご存知のように北極にペンギンは居ない。

 日本にペンギンがもたらされたのは江戸後期。長崎に来日した剥製の水鳥は、後にシーボルトの鑑定を受けるが、その存在が記された書物には北極に住むと説明されているという。シーボルトの思い違いか記録者の思い込みか。
 一般に知られるようになったのは、1910年からの白瀬中尉の南極探検の映像で紹介されてから。探検隊は標本も持ち帰り、さらに15年には生きたペンギンが初めて来日した。この経緯から、“ペンギンは南極”と、日本人の頭に刷り込まれていそうなものだが、南極も北極もはるか遠くの極寒の地という以上のインパクトを当時の日本人に与えなかったのだろう。

 赤道直下ガラパゴスに住む種類まで、ペンギン一族は様々な気候帯に分布する。が、その生息は南半球に限られる。南極に端を発し赤道直下にいたる寒流に沿って生息地を広げていったと考えられている。

 その法則に逆らって、いま北半球最大のペンギン生息地が日本。自然界では絶滅危惧種のフンボルトペンギンも、日本で繁殖しどの動物園でも当然のように見られる。ペンギン大国日本産の子ども達が外国の動物園に帰化している。

飛翔

このページのトップへ

八月の人鳥

 小学一年生のときに長い習字紙一杯に書いた習字が軸装されて残っている。「ぺんぎん」という文字は、自由題だった筈。

 ヨチヨチ歩きの癒し系の人気はいずくも同じかと思ったが、動物園の人気投票で必ずベスト10に入るのは日本の動物園独特らしい。
例えば二年に一度の人気投票を実施する東山では、ゾウやライオン、キリンとともにベスト10入りの常連(ちなみに來園からこっちトップの座はコアラが手放さないのだそうだ)。自宅で飼育する人も増えているという。
 
 炎天の名古屋は、動物たちにも受難の季節。万博会場の行列では熱中症防止に、噴霧装置が活躍しているが、動物たちにも何よりのご馳走は水。ヒグマは小さなプールにのびているし、インドサイもペンギンたちもシャワーの下でくつろぐ。

 ペンギン舎は氷山風で涼味を呼ぶが、実際は白く塗られたコンクリート。温気に晒された開放型の円形プールに飛べない鳥たちは棲んでいる。
 ペンギンを極地の鳥と決め付けるのは思い込み。

 名古屋の炎天下でシャワーを浴びているペンギンたちは、フンボルト、オウサマ、イワトビ。18種といわれるペンギンのうち比較的温暖な亜南極に生きる仲間たちである。一方、皇帝ペンギンら南極圏在住者は、東山のような開放型の鳥舎には棲めない。冷房完備の住いを必要とする。
P7300012.jpg

このページのトップへ

寒い色

 巨大な海獣が回遊する深い深いプール。柵から乗り出すようにして覗くと、遥か下、ニビ色の水面に波を蹴立てて巨大な海獣がうねる様に泳いでいた。
 「ここに落ちたらどうなるのだろう。」
 海の猛獣たちがそこにはいた。

 今見る“アシカ池”はこじんまりと穏やか。小さな灯台の建つこの池は、幼い私が見たものと恐らく全く変ってはいないのだろう。が、あのときの私にはここは巨大な海だった。

 隣のプールのゴマフアザラシは二頭。旭山と違ってここでは、アシカの方がスターのようだ。

 アシカもアザラシも鰭脚亜目に属する海獣たち。アシカ科、アザラシ科、セイウチ科の三種族が、鰭脚亜目を形成する。ゾウのような牙を持つセイウチは、たった一種でセイウチ科を成している。同じ“鰭脚”ながら脚の構造が違うので、陸上では這いずることしか出来ないアザラシ科に対してアシカ科、セイウチ科の仲間は立って歩くことが出来るし、泳ぎ方も違っている。オットセイ、トドは、アシカ科の一族となる。

 「アシカじゃあるめえし寝てばかりいられるものか」
幕末の歌舞伎『三人吉三』(河竹黙阿弥)には、主人公の一人お坊吉三の台詞にアシカが登場する。
 ニホンアシカは、20世紀初頭まで確かに存在した。20世紀後半にも竹島などでの目撃されたが、この三十年は消息がない。カリフォルニアアシカよりも大柄だった日本の海獣は絶滅したとみられる。

飼育係さんが魚のバケツを提げてやってきた。一尾二尾投げると残りは居合わせた見物人達にゆだねた。大きな一頭と小さな五頭が行儀よく雁首を並べる。アシカ族は一夫多妻。一つのハーレムが小さな小さな海に住む。
アシカ一家

このページのトップへ

コアラ誕生


 巨人がわが身を盾にして干潟を築いた『八郎』の物語は土地に伝わるものではない。ラジオドラマで聞いた八郎潟の民話に憤懣やるかたない斎藤隆介氏が一気呵成に書き上げたものだという。

 のちにこのもう一つの『八郎』を、斎藤氏は再話しているが、ほかの二人が猟にいっている間に、三人分の岩魚を食べてしまった男が竜にされてしまう、この件りが許せなかったという。
「山の民が魚を三匹食ったくらいで竜にされてたまるものか」
この民話を発端に松谷みよ子女史は、“皆が食べられるようになればいいんだ”と発想する八郎の裔、『龍の子太郎』を生み出した。

 乏しい食で生活する風土に共通する戒めなのだろうか、コアラ誕生にまつわるアボリジニの伝説は、岩魚譚によく似ている。両親をなくして親戚の家に養われる少年が、家人が留守の間に乏しい水をすべて飲んでしまった。帰ってきた家人は、木のまたに登ってじっと隠れていた少年を発見、木をゆすった。木から落ちた少年はしばし気絶したが、やがて息を吹き返すとまた木に登り始めた。それを哀れんだ神は少年を小さな動物の姿に変えた。他の動物の食べない食料を食べ、水を飲まない動物に。コアラとはアボリジニの言葉で水を飲まないものという意味である。
 ユーカリは毒性があり、消化も悪いが、コアラだけはそれを解毒消化する腸を持っている。600種あるユーカリのうちコアラの食用になるのは20種ほど。彼等は食用の葉を嗅ぎ分けて食べる。但し大きなカロリーは得られないのでコアラは一日の20時間を眠ってすごすのだそうだ。
 東山動物園は、日本で初めてコアラの飼育を始めた三園の一つ。コアラ舎の前には、匂いを嗅ぎ比べられるサンプルが置いてあった。
スケルトンコアラ

このページのトップへ

Search

Information

JAMIRA

Calendar

08月 « 2005年09月 » 10月
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

Recent Entries

Recent Comments

Recent Trackbacks

Archives

Categories

Links

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。