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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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浮世風呂

 お湯屋の値段はいつもこの時期に騰がった。
五月中旬、恒例の国立大劇場公演の千秋楽を迎えて銭湯に行くと必ず十円あがっていたものだ。
 
 私が初めて国立に出た87年に十円騰がって270円。88年280円。消費税が導入された89年には15円、端数を解消するためか翌90年にも15円で、310円。91年から再び十円ずつの値上げが続き、370円まで。消費税増税の97年に15円増、ここまでは年毎の値上げだった。三年をおいた2000年に再び15円騰がって400円、以来今年も据え置きのままの湯銭である。

 利用者としてはこれ以上の値上げはご勘弁願いたいところだが、後継者問題、経営問題、銭湯の継続はなかなか難しいのだろう。廃業していくお湯屋も少なくない。今23区には1000位の銭湯があるという。


「お前だなあちこちで喋ったのは、町中で噂になってらぁ」
「なにあちこちで喋りゃあしねえ、たった二軒、湯屋と髪床だけだ」
という噺の枕がある。町内の社交場であり、情報交換の場。この二箇所で喋ったら町中に広めたと同じこと、というわけだ。

 下町あたりは知らず、黙々と身体を洗い、湯に浸かるのが昨今の銭湯。口をきくのは、行き帰りの番台での挨拶ていど。その日年配の人が話し掛けて来たのは、異例中の異例だった。
昭和六年生まれというその人の話は、近頃の若い者の風呂の入り方から始まって、年金の話、昨今の職人の贅沢の話・・・。
「酒なんて盆と正月しか飲むもんじゃなかった。」
尽きることない話に少々湯あたりをした。
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我も黄金の釘ひとつ

 名優にして名エッセイスト、故芥川比呂志氏に『「シラノ」の落葉』という文章がある。巴里で観たシラノの大詰、俗に言う“シラノ週報”の場、舞台の色彩の妙極まれり。スズカケに似た落葉が絶妙の色合いで英雄の死を悼む。終演後、客席に落ちた葉の一枚を手にした名優は愉快を感ずる。“極めて自然に”歌舞伎の三角の紙雪を想い出す。それは、スズカケの葉形に切り抜いただけの生地のままの安っぽいハトロン紙に過ぎなかった。

 “まったく、いつでも、どこでも、うまい、人を喰った、安あがりの、こすっからい、長保ちのする、妙ちきりんな手を思いついて来たもんだなあ、芝居者という連中は!我等が親愛なる先輩諸氏は!”(第二随筆集『肩の凝らないせりふ』)

 歌舞伎舞台に降る紙の雪は江戸時代には三角形だった。髷を結ぶ元結という紙縒り-こより-の端を切った余りの再利用だったという。今取寄せる美濃紙の雪は機械で裁断された四角い和紙。ダンボールに入って届いた紙雪をほぐして雪籠に入れるのは、今でも全くの手作業。だが、それも所詮生地のままの和紙に過ぎない。それをどう芝居心で降らせるか。綿でくるんだ雪バイ(バイ=撥、語感から音便化したものか)で太鼓を叩く雪音が、本来ありえない雪の降る音が、嘘の雪を自然現象を超えた真実に仕立て上げる。

 決死の直訴計画を胸に故郷に戻った佐倉宗五郎の末期の眼に映る、荒れ果てた田畑の雪景色。その宗五郎の身に積もる雪は、伝統的には綿を貼り付けたもの。
 花道を一歩一歩進む度にぱらりぱらりと落ちる雪は、宗五郎の心境と行動を象徴する。綿では真実味が薄いというので、衣裳方の伊藤静夫氏が研究と工夫を重ねた。
 塩と重曹とを丹念に混ぜ合わせ、揚幕で七分余りを掛けて絵心に細かく気を配ってつける。誰に頼まれたわけでもないのに、塩と重曹に顔を荒れ痛ませながら、この苦労を買って出たのである。笠の雪も三段に別れて落ちると真実味があると小宮さんという小道具さんが工夫したやり方を現在に受け継いでいる。

 『佐倉義民伝』をはじめ、前進座が独自の工夫を重ねて練り上げた当たり狂言を、座の「財産演目」と呼んでいる。その工夫の陰には一つ一つに大変な苦心と労力が隠れている。

 静かにさり気なく、今日も雪ははらりと落ちる。
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ベロ出しチョンマ

 創作民話の斉藤隆介氏も二十年近く前に既に鬼籍に入っていたことを先日知った。氏の代表作は『八郎』と『ベロ出しチョンマ』と言っても反対する向きはそうあるまい。

 チョンマの本名は長松。千葉の“花和村”に生まれた少年だった。チョンマ少年の父がネングを軽くするよう将軍様にジキソした為、一家はハリツケに処される。
 幼い妹がシモヤケの辛さに泣く時、眉をカタっと「ハ」の字に下げベロっとベロを出したマヌケたツラでケタケタ笑わせていたチョンマは、槍の穂先に泣き出した妹を気遣って今わの際にもその顔で死んで行く。
千葉の花和村の木本神社の縁日では今でも「ベロ出しチョンマ」の人形を売っている、と物語は結ばれる。この話に出会った小学生の頃いつかその縁日に行ってチョンマの人形を手に入れたいと思った。
 チョンマの父の名は、木本藤五郎。千葉の四街道に住んでいた斉藤隆介氏が、『佐倉義民伝』に伝えられる木内宗五郎を下敷きに物語を紡いだのは明かだが、四度目の『義民伝』出演の今回それを初めて知った。

 佐倉事件は1653年に起ったと伝えられる。実説を考証するのはまだ難しい。地元に伝わる伝説によると、木内宗五郎は佐倉389ヶ村の名主。幼少の当主を良い事に、堀田家の家老が私腹を肥やす為に飢饉の国元に重税を課した。宗五郎らは嘆願を繰り返すが、聞き入れられず、とど宗五郎は将軍家に直訴する。減税がなされ 農民らは息をつくが、直訴は極刑、宗五郎はもとより本来罪に問われぬ筈のつ離れしない女児達までが村中に設えた刑場で首を落とされる。
 幕末に劇化され今に伝わる『佐倉義民伝』でも、直訴に旅立つ宗五郎の子別れの場面は紅涙を絞る。浴衣がけでその部分のみをあたっているのを見ただけで、稽古場の女優陣がハンカチを握り締めていた。
 その佐倉事件を子供の側から描いた創作民話は、素敵に暖かい。

 仕事柄全国津々浦々を廻ったが、チョンマの人形にはもちろん巡り合わない。けれども、チョンマの一家にはそれと知らずに再会していたのだった。

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回文の里

 仕事で訪れた作並は、仙台から仙石線で三十分、そこからバス五分ほど揺られると温泉がある。もっとも仕事で向かった私は、温泉のあるホテルまで行きながら湯の香を嗅ぐ暇もなく作並駅にとんぼ返りした。
 改札には使用済み切符を入れるポケットがあるだけだが、駅舎では売店を兼ねて有人で切符を売っている。この小さなホームに交流電化発祥の地という碑が立っている。

 仙台とこの作並との区間での四年に渉る交流電化の実験の後、1957年に実用化された旨の説明はあるが、鉄道マニアでない私には交流電化がどういうものなのかがわからない。
 帰ってから調べたら、列車は機関車からまず直流電化された後、各列車のコストは大きいが、設備投資は少なく済む交流電化が始まったのだという。
 運転本数が多い所では直流のほうが低コストで済むので、交流と直流は共存しているらしい。
 そう言われれば、一瞬電車内が真暗になるというのを経験したことは何度かある。確かに、電化の種類が切り替わる為だとそのときの車内アナウンスは説明していた。

 養老五年に行基が発見したと伝えられる温泉に向かう送迎バスの道すがら、“回文の里”という看板が目についた。
 回文といえば、“談志が死んだ”“竹やぶ焼けた”などなど上から読んでも下から読んでも同じになる文章のこと。“なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな(長き世の遠の眠りの皆目覚め、波乗り船の音の良き哉)”という七福神をうたった長文が有名で、そのまま長唄の詞章にもなっている。
 ここ作並が何故回文の里なのか、駅に戻って売店に置いてある新作回文集を見てその訳が知れた。
 1000余りの回文を作った名人、幕末の仙代庵・細谷勘左衛門が作並ゆかりの人。作並の風景を詠んだ回文の名作も残しているという。
 
 徳川の世が終わり、“明治”と元号が改まった時、“治まるめい(明)と下からは読む”という落首が出た。
 下からも上からも同じに見える世の中、それはなかなか難しいことなのだろう。 
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今大岡様

 長屋の江戸ッ子を描いて爽やかな岡本綺堂作品『権三と助十』は、大正十五年七月の初演時、入りの悪いのがジンクスの夏芝居を満席に導いた。座でも加東大介氏らによる初演以来、上演を重ねている“財産演目”。
劇団の初代たちの芝居づくりでは、役々を身近の人になぞらえてイメージを膨らませるという段階をよく踏んだようだ。『権三と助十』では、舞台に登場しない大岡越前守の処に「布施辰治先生」 と言う名が入っている。

 布施辰治弁護士は、前進座の大恩人。座の規約をはじめ、劇団が存在するための法律関係事項は一重にこの方に負っていたといっても過言ではない。
大韓民国の建国勲章が、昨年末氏の遺族に贈られた。1960年初頭以来、中、英、米、愛蘭、加、計44名の外国人も受けている賞だが日本人受賞はこれが第一号。それを記念して此の一月母校明治大学リバティホールでシンポジウムが開かれ、その人となりの一端に触れた。

布施辰治(1880―1953)氏は、石巻に生まれ明治大学の前身明治法律学校を経て、検事となったが十箇月で辞任。社会派、人権派弁護士としての以後の活躍は、墓碑銘に刻まれる“生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために”の言葉のままだった。
日清日露の戦勝ムードの1919年、『朝鮮独立運動に敬意を表する』という論文を発表、検事局の取調べと監視をうけた氏は、その後も、国内外を問わぬ人権擁護の弁護活動を展開、その中に植民地統治下の朝鮮民族の人権を擁護する仕事が一貫して行なわれた。
 80年前に布施弁護士が展開した「朝鮮水災救護運動」を知った韓国の人々が、昨年新潟地震救援街頭募金を展開したという波及も、シンポジウム会場で紹介された。

 彼の闘い振りは、時に頓知の如く。例えば、大杉栄がステッキで尾行を殴った事件の裁判では、「太政官公布の隠密令」をかざして弁護したという。「隠密令」には尾行は隠れて密かにするものとある、大っぴらに付き纏った大杉の尾行は法律違反であると。
 そればかりではあるまいが、権力側がすでに忘れてしまった法令を引っ張り出して正当なものを弁護した例がいくつもあげられた。“彼等の縄を以って彼らを縛れ”という戦闘法。
 
『権三と助十』は、神田橋本町の長屋の住人達が主人公。人殺しの罪に落ちた長屋の仲間の再審を、大家さんの窮余の一策を頼りにおっかなびっくり大岡越前守さまに願い出る。
名奉行と崇め奉られる大岡様のイメージは、前進座長屋の人々にとって布施弁護士を置いてなかったのだろう。

http://www.geocities.jp/jamira19608888/gonza.htm
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