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一役者の気ままな雑記。 何処へ転がりまするやら。

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江上の破屋

“江上の破屋に蜘蛛の古巣を払いて”とは、芭蕉翁の『奥の細道』。
二年もほったらかしたブログに戻って来て、そんなフレーズが不図口をつく。
『お染の七役』の番頭善六に手いっぱいだったり、劇団のブログを担当したりで
手につかぬ儘に時が経ってしまった。

翁の如く“春立てる霞の空に”また破屋を離れることになるやは
不詳乍ら、取敢えずは日々のよしなしごとを綴ることにしたい。


深川芭蕉庵

“せーの”と云う掛け声を聞くとドキリとする。
が、それがこの頃少なくも日に二度や三度はTVから聞こえてくる。
人と合わせる必要のない処でも“せーの”と云わないと動けない人種が増えているようだ。
言葉は変化するのでそれは一向構わないのだが、時代劇や下手をすると歌舞伎の捨て台詞に出て来かねない昨今の“せーの”一辺倒状態である。同じく一世を風靡していても“最初はグー”のように起源がはっきりしているものは始末が良いのだが、“せーの”については壽岳章子女の考察があるものの、定説に至っていない。西濃運輸起源説はどうやら眉唾らしく、“いっせえのせ”から来たというのが有力である。

歌舞伎や戦前の時代劇映画には出てこない、これが捨て台詞でその言葉を使うかどうかのささやかな拠り処になる。が、江戸の話ではない新作歌舞伎なら、“せーの”と云っても何ら可笑しくはないわけで、その辺りから古典の捨て台詞に“せーの”が流入してくるのはもう指呼の間と危ぶまれる。
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将軍の墓

源氏山から北鎌倉へ…
何処かで聞いたフレーズの様な経路を歩いてみたのは三年前だったか。
化粧坂の切通しなどを通って、こんな険しいところに幕府を置いたのかと
不明ながら初めて知った。


歌舞伎では江戸の街に擬えられる鎌倉だが、
商業性を重視する秀吉以降の都市とは違って、防備第一の軍都である。
久し振りの神奈川の演劇鑑賞会さんのコース、午後からの公演なので、
こんな機会でもないと足を運ばない鎌倉に始発で出て来た。

頼朝の墓と段葛を見るのが目的だったが、
段葛は周囲を覆って三月末まで保全工事の最中。
桜の季節には間に合わせようという腹らしい。


 小中学生の一団と前後して、若宮大路を鶴岡八幡宮へ。
小学生は大路の右を中学生は大路の左をと綺麗に分かれて行く。
修学旅行の季節でもあるまいと思ったら八幡宮境内を抜けて右手の
中高への通学路になっていたのだった。歌舞伎狂言でもお馴染みの
“雪の下”という洒落た地名に建つ小中学校の先を北東に行くと法華堂跡。
三浦一族が大挙して割腹、滅亡した地である。
此処に残る頼朝の墓は、頼朝の子孫を名乗る
薩摩の島津氏が江戸中期に改修したもの。

 頼朝の子孫かどうかは兎も角、
島津も毛利も鎌倉をルーツに御家人として西国に広がった氏族であることは、
司馬遼太郎氏が『街道をゆく』に記している。


 頼朝墓のすぐ右手に大江氏、島津氏、北条氏の墓があるが、
此方の方が石段も長く風趣に充ちている。
改修した島津氏の趣味か、当人の人となりなのか、
頼朝さんの墓はどうも素っ気ない。
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味噌蔵の箍

 八丁味噌蔵通りは矢作川の近く、岡崎城からは870m程。八丁味噌の名は、岡崎城から西八丁―870mの位置で作られたのが由来。
だから、八丁風の味噌ということはあっても、八丁味噌を名乗れるのはこの位置にある二店のみ。東海道を挟んで北側が宮内庁御用達のカクキュー、南が徳川家御用達の“まるや”。規模は小さいが、まるやの方が由緒は古いという。古い味噌蔵には葵の紋入りの瓦が乗る。
 高岡へ移動の貸切バス出発は11時。ホテルから八丁蔵通までは2~30分。
カクキューの見学は10時からだったので諦め、まるやさんで聞くと次の9:30の回で可能だという。待つ間に、紹介ヴィデオで味噌造りの流れを一通り学習。ナビゲーターは地元出身の役者さんなのだが、何を勘違いしたのか初っ端に三英傑はみんな尾張の出身、と言い放ったのに吃驚。況して此の三河の地で。
味噌樽、箍はダミー

 9:00からの見学を終えた団体のバスを送り出して、本日二回目の見学会は私の貸切。
  工場の取っ付きは赤だし味噌製造工程。此処はあっさり通り過ぎる。赤だし味噌とは、出汁を練り込んだものを指すこともあるが、この場合は八丁味噌に米味噌を混ぜたもの。
 赤だし工場を過ぎると両側に大きな樽の並ぶ味噌蔵。 

六尺という巨大な桶の蓋に円錐形に積み上げた重石を乗せて二冬n二夏熟成の時を過ごす。重石の積上げは、石の“顔”が面に出る様に積むのがコツだという。熟練者なら三時間ほどで積み上げるというコーンの姿は無駄なく美しい。
 桶も重石も江戸時代からのものがいまだ存在するが、古い桶でも今は金属製の箍が主流。一番古い味噌蔵だけは流石昔ながらの竹の箍だと思ったら、これNHKの美術さんが造って被せたウレタン製の似せ箍を遺したものだった。岡崎を舞台にした朝ドラが嘗て放映され、界隈には岡崎を舞台にした出演者の手形などが残る。
 
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家康、反省。

岡崎のホテルがあるのは、城下を通る東海道筋。
国防の為曲折の路程が造られて二十七曲りと呼ばれている。
ホテルの前には街道筋の風俗を表す小石像が並ぶ。この伝馬通のすぐ隣が康生通り。康生通りの記念碑

家康出生記念の看板を出しているところを見ると、ここで家“康”が“生”まれたからの名前らしい。
 反省家康像
 
 近年戦国ゲームのキャラクターのような“おもてなし”武将隊“が何処の城でも盛んだが、
御多聞に漏れず、グレート家康武将隊が存在する。
春休みのこと、連日演武が行われ、村崎太郎門下の猿回しも城内で芸を披露する。

 城のある岡崎公園は、桜の名所百選に選ばれ、屋台の数も相当なもの。
城の塀からは万遍なく桜の枝が覗く。城中に桜が植えられたのは、
要塞としての役目を終えてからの事だろうと思えば、誠に目出度い景色。
尤もその為に春の河原は、陣地取りの合戦舞台とも
なっている。

 園内には幾つもの家康像が建つが、
意外だったのは三方が原戦役肖像を模した石像が並んでいたこと。
武田信玄の軍に大敗を喫して馬上で脱糞したとも伝えられる敗走の際、
戒めの為に苦渋に満ちたその姿を写させたと伝わる異色の画像の立体化。
レアもののフィギュアに出会った気分。
合わない靴に悩む家康
 町の靴屋さんの店頭で、このユニークな渋面肖像をもう一つ見つけた。
余りポピュラーとは言えぬ反省・家康像が街角にマッチしているのは、生誕地故か。
 それにしても、この肖像を家康が発想して、徳川300年の間も伝えられたのだとしたら
その心根の在り処は実に興味深い。
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水都の城

 大垣は何度も訪れ乍ら、ゆっくり市内を歩いた記憶がない。
城の外堀が遺構を遺しているこの街は、市が名乗るように水都と呼ぶに相応しい。
 洪水で決壊した際、コンクリートでなく石積みを以て改修した為に水都の風情が保たれている。
時の国土省大臣が大垣出身だった為だと、芭蕉・木因像の前でボランティアガイドさんから聞いた。

“死”に音通する四重四層の天守閣は、大垣城の他にほぼ類がないという。
終戦半月前の七月末大垣空襲で灰燼に帰したが、それまで関ヶ原戦時の姿を遺した旧国宝であった。
天守に上がっても他の城のように展望台風の回廊はない。窓もかなり小さく見晴らしは良くないが、これが本来の姿。戦後鉄筋で再建されたものを三年前に外観改修したもので、致し方ない。

 石田三成の西軍本陣は、当初ここに籠って家康と対陣、緒戦では成績を収めている。
主力軍が関ヶ原に導かれ敗れて後も、大垣城籠城戦は十日近く続いた。この時の城中を記したのが、『おあむ物語』なのだという。
お菊物語・雑兵物語と共に岩波文庫に納められたものが書架にあるのだが、ちゃんと目を通したことがなかった。帰ったら読もうかと思ったら、今時はネット上に翻刻されたものが只で読める。
ドラマ等では、歴史を俯瞰して島津勢大返しと三成・行長・恵瓊の捕縛で時代の転換を示して終わるのが定法だが、時代の只中に生きる人々にはそんなものではなかったろう。

 関ヶ原の戦はおあむ物語に、「三成 御謀反の時」と記される。徳川治世下では、当然の記述だが、時代の限界ということを思わされる。
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